高取城 [1/6] 日本三大山城の一つ、山上に佇む巨大石垣群。

高取城は元々は南北朝時代に南朝側の砦として築かれたのが始まりとされるが、現在残る巨大城跡は天正十三年(1585)羽柴秀長の大和郡山 赴任の際に控城として大改修を行った近世城郭としての高取城がベースとなっている。その後 筒井氏 本多氏などを経て、寛永17年(1640) 徳川譜代の植村氏が城主となり、以後 幕末まで14代230年に渡り務めあげた。総石垣と三重天守や数々の櫓・城門を戴く巨大山城。明治の廃城令で払い下げ後も建物は残されていたが、明治23年頃に全て破壊された。今は高石垣や城門跡などが残る。本丸・二ノ丸付近の石垣は復元整備されているものの、城門跡・武家屋敷跡などはほぼ放置され、各地で崩壊しつつある。

<基本データ>
●名称:高取城 (Wikipedia)
●所在:奈良県高市郡高取町 (マップ)
●築主:越智邦澄 / 本多利久 / 植村家政
●築城:1332頃 / 1589頃 / 1640頃
●遺構:高石垣、虎口跡、堀切、井戸 など
●情報:日本100名城 No.61 (一覧)

Links: 高取城 訪問記(全六回)
※壷阪寺〜五百羅漢ルートで登った旧訪問記(201310)はコチラ →


<訪問記>


広大な高取城跡。登り口は多数あるが、今回は城内でガッツリ時間を取るため、車で林道を上り、七つ井戸の麓より散策開始。

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現地には縄張図の案内がないため、GPSログデータをもとに説明。車道をあがってきた七つ井戸より散策スタート。高取城は広大で、主要部である本丸〜天守台〜国見櫓〜猿石だけでなく、そこから各尾根に伸びた城道の先端にある堀切群(弥勒堀切、岡口門)や武家屋敷群跡に残る石垣なども見に行ってみよう。

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ではまずは七つ井戸を縦断する石段から一気に二ノ丸へ。

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急な石段が上まで続く。脇には段々に構成された井戸郭的な場所が多く並んでおり、七つ井戸の名前の所以となっている。

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「七ツ井戸」看板。その奥には郭を支える巨大石垣。

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このあたりから、総石垣だった城の片鱗が見えてくる。どんどん上がろう。

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草木で覆われていた視界が一気に開けて、巨大な石積みの櫓台が見えてきた!

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早く石垣のところへ行きたい気持ちを抑えながら、道にそって右へ左へ。

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七つ井戸最後の郭の部分から、その上にそびえる二ノ丸の石垣を見る。石垣の色が全く違う。二ノ丸の石垣はかなり整備の手が入っている(要は積み直しか)ようなので、苔の類が全て取られてしまったのだろうか。違いがよく分かるビュースポット。

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七つ井戸を越えて、いよいよ二ノ丸城内へ。勿論こちらは裏口、搦手門のような位置づけになるだろう。

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ふと振り返ると巨大で複雑な石垣の迷路が山上に築かれていた。一番奥の石垣の上が本丸になる。こちらは、最後に行こう。

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石段を登り切ったところにある、二ノ丸の石垣。苔の類が一切なく、かなり積み直しているか、あるいは綺麗に削りとったような石垣。比較的丸い石を乱雑に積み上げた野面積み。だが、その時代の割には石が綺麗すぎて、実に不自然。すごい迫力ではあるけれど。

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まあ、気を取り直して城門跡より城内へ。縄張図には城門の絵はあるものの、城門の名前は記されていなかった。

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入ると正面は石垣の壁、道が左へ曲げられていて、すぐには二ノ丸に入れない構造。

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右側を見ると、斜面を平らにすべく巨大な石垣が組み上げられていた。そしてこちら側の石垣には苔が結構ついていることも分かる。

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では折れ曲がった道を通って二ノ丸へ。正面は本丸、一番高い石垣は天守台だ。あの上に、更に三重の大天守がそびえていた。

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ここは二ノ丸の一段上の郭にあたる。名称不明。本丸帯曲輪か、あるいはここも二ノ丸の一部にあたるか。

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向かって左側には、郭の外側を守る土塁のように石垣による櫓台が築かれていた。左右の端に隅櫓がそれぞれ建っていた(太鼓櫓と新櫓)。右側の切れ目から外へ降りる。

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外側へ。ここは左右の石垣をまたぐように多聞櫓が建っていたという。十五間の長さがあることから「十五間多聞櫓」と名付けられている。一間は約1.8m、十五間なら「約27m」だ。

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こちらが二ノ丸跡。藩主御殿が建っていた。奥には隅櫓跡もあるので、後ほど訪ねてみよう。

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二ノ丸から更に一段降りる城門跡。折れ曲げられ、かなり巨大な石垣台が左右に築かれた、壮大な城門だったようだ。

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二ノ丸から城外へ向かう巨大城門跡。十三間多聞櫓跡、と看板が建っていた。城門というより、向こう側の石垣の上に建っていた多聞櫓に付属する門、という意味合いが強かったのだろうか。

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十三間多門櫓を出ると、細長い郭になり、そのまま真っすぐ進むと大手門跡を経て三ノ丸(武家屋敷群)へと繋がる。

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大手門前あたりから、二ノ丸方面を見る。

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大手門を出て三ノ丸へ。ここからは長い城内路が山麓の城下町までずっと続き、その左右に武家屋敷が建ち並んでいたエリアとなる。道は真っ直ぐだけでなく、右にも左にも通じており、城の正面にあたる大手門前という印象がする。右へ行けば吉野口門(後ほど訪問)へ、左へ行けば壷坂口門(今回は未訪)へ、まっすぐ行けば二ノ門(これから訪問)へ。

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大手門前にあった説明板「史跡高取城跡 大手道登城案内図」。ここから本丸まで289m(細かい)、壺阪山駅まで4.5km!地図の青線は車道、赤線は徒歩のみの道だ。

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大手門を振り返る。右側の石垣がかなりの巨石をこれでもかと積み上げていて大迫力。大手門城門自体はここではなく、道を右に曲がった先にあった。別名「御城門」。

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では大手門から直進、二ノ門を目指そう。今は森の中の道だが、かつては左右に武家屋敷が建ち並んでいた。まったくと言っていいほど、面影がない。

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道の左側には、図面によると「城代屋敷」があった。枯れ草の奥に石垣が埋もれている。看板らしき板も立てられていたが、看板の表面が苔まみれになっていて、まったく読めない。

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では城内路沿いに築かれていた各城門を通りながら、猿石を目指そう。まずは「千早門」。由来は恐らく大楠公の城「千早城」に由来するものだろう。元々 南北朝時代にこの城が最初に築かれた際は、南朝の砦として、大楠公の千早城とともに吉野の南朝を守るための城だった。その由緒にあやかってものだろうか。ここも食い違い虎口になっていて、曲がって右側のところに城門が建っていた。

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千早門下の石垣。先ほど見た、城代屋敷の周囲の石垣になる。屋敷の石垣にしてはかなり立派。さすがは城代。城代(じょうだい)とは、その文字の通り、大名や城主から代わりに城を守るよう任された家臣のこと。

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次の門は「宇陀門」。こちらは同じ大和国の宇陀(うだ)地域を意識しての名だろうか。こちらも千早門と同じく、食い違い虎口に城門を付けたタイプ。

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宇陀門下より。正面の石垣の向こうは侍屋敷、右側は宇陀門上の郭の外周石垣となる。

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宇陀門 全景。杉の木が多いが、門の上下で結構な高低差があり、それを物語る足の長い角石垣がカッコいい。

侍屋敷エリアはまだまだ続きます。

>> 高取城 [2/6] へ続く。<<

訪問時期:2015年12月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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