高取城(旧訪問記) その二。
その一はこちら。
※当ページは高取城訪問記の旧ページ (2013年版) です。詳細版 (201512) も御覧下さい。
Links: 高取城 訪問記 (全六回) : 一、二、三、四、五、六。
<訪問記>
本丸説明板。こちらも手書きでなかなかの佇まい。だが、修正されまくりなのが玉に瑕。四隅に建つ大天守・小天守・鉛櫓・煙硝櫓を多聞櫓で繋いだ「連立式天守」。調査により、近隣の古墳の石材を転用していたり、櫓下の付台石垣の下に山城遺構としては稀有な胴木が見つかるなどしているようだ。
本丸からの眺め。さすがは山頂、見事な眺望だ。更にこの上に天守が建っていた頃は、もっと高くからの眺めを楽しめたことだろう。
天守台は本丸の北西角にあり、一部 入口のような通路があるが、中に石段等はなく上がれない(元々はハシゴか木の階段があったと思われ)。本丸は平坦ではなく微妙に斜面になっており、天守台も斜面に建っていることから一部石積みが低くなっているところがあるので、そこから登る。
天守台の上へ。何も無いが綺麗に草が刈ってある。眺望は高い木が邪魔して見づらい。
天守台の上には三等三角点。城跡でよく見かける三角点。説明板等は無し。
二の丸から見上げた天守台の石垣はかなり高かったので、逆に天守台の上から二の丸を見下ろしてみる。なかなかの高さだが、背の高い木がたくさん生えているのでそれほどの高さを感じない。
天守台から本丸入口の虎口を見る。ぐるっと一周まわらされる変わった形だ。
天守の下には井戸の跡。井戸を囲っていた建物の礎石らしき石が一直線に並ぶ。山頂に井戸が湧き、今も水を湛えているのはすごいと思ったが、どうやら湧水井戸ではなく雨水などを溜めておく溜池の類のようだ。
本丸を出て、本丸石垣の周囲をぐるっと廻ってみる。石垣の間から大量の草が生えて大変なことになっている。正面の方は綺麗に石垣上の草を刈っているということか。
ぐるっと廻って再び天守台の下へ。やはり結構高い。
ふたたび三の丸まで戻り、今度は城下町の方面へと続く大手道を進んでみる。当時は城下町からこの道を一直線に上がってくるルートがメインだったようだ。ここは三の丸出口にあたる千早門跡。
千早門跡から侍屋敷跡を越えると現れるのは「宇陀門跡」。千早だの宇陀だの、近隣の地名が門の名前になっているのが面白い。本丸より巨石を使った高い石垣に目を奪われる。
宇陀門の次は「松ノ門跡」。向かって左側の石垣はかなり高かったが崩壊の恐れがあるのか金網で覆ってあった。この松ノ門は移築され遺構が城下町に残っているらしいので、後ほど見に行ってみる。
金網で覆われた高石垣。細い山道の途中にいきなり現れるこの高さの石垣に、当時の訪問者だけでなく現代人にも十分驚きを与える。この上には侍屋敷が建っていたようだ。ぜひ崩れないように修復工事等していただきたい。
その先には崩壊した石垣が。先ほどの高石垣が崩れたら大手道は完全に埋まってしまうだろう。金網もやむなしか。
さらに進むと次は「矢場門跡」。矢場門跡の横には国見櫓への分かれ道があるが、そちらへは後ほど行くこととして、まずは大手道を進む。
この辺りまで来ると道の両脇は斜面や石垣ではなく、このような削平地が広がる。侍屋敷がたくさん建っていたのだろう。
二の門跡。
二の門横には大きな池があった。まだまだ山の上だがこれだけの水が湧いていることに驚き。本丸内にも井戸があるし、本丸の向こう側には七つ井戸という場所もあり、高取城は水には困らない城だったようだ。
そして「猿石」。立て看板によると、明日香村と城下町への山道の分岐点にあるこの奇妙な石像は、高取城築城の際に石垣石として明日香村から運ばれる途中にここに置かれたのではとのこと。明日香村にも同じような猿石が4体あり、すべて飛鳥時代の遺構、つまり1300〜1400年前に造られたもの。すごい。
大手道の散策はここまでとして、先ほどスルーした矢場門横の国見櫓へ向かう。
ここが国見櫓への分岐点。国見櫓跡は私有地らしいが、地元のボランティアの尽力により木々の伐採および整備を行い、ハイカーが立ち入る事ができるようにしたとのこと。
分岐点から2〜3分歩くと国見櫓跡へ。曲輪の一番奥が櫓跡になる。一部の木々が伐採されており、そこから眺望が楽しめる。足元には礎石と思われる石が並ぶ。
こちらが国見櫓跡から見た奈良盆地の眺望。北〜西北西方面になる。左下の山に囲まれた細い街路が、城下町にあたる土佐街道。中央少し右よりの山が畝傍山 199m。その奥にうっすら見える高い山が生駒山。中央左奥の高い山が二上山。(現地説明板より)
国見櫓跡に建っている観光協会による説明板。天気が良ければ六甲山や比叡山まで見える!という。夜景もさぞ綺麗なことだろう、が、夜にここまで来るのはかなりの至難の業かと。
以上で城跡の主だったところは見終えたので、本丸と二の丸の間にある新櫓跡の奥の小道から「七つ井戸」ルートで下山する。
新櫓跡の奥へ。やはりこの石垣だけやたら綺麗。この横の小道から、下山する。
登りの際に通った山道に比べ、こちらはかなりの急勾配。少し降りただけで、新櫓跡の石垣がかなり上に見える。
更に降りる。道が右に左に七曲り状態になっており、そのあたりに井戸が散在していた模様だが、草が多くどこが井戸か分かりづらかった(一部ここが井戸という看板あり)。
「七つ井戸」看板。恐らく奥の茂みの中が井戸(跡)なのだろう。草の奥に石垣も見える。七つ井戸を降りると、車道に出る。ここまでは車で来れるようなので、山道を登りたくない向きはこちらのルートでいきなり本丸を目指すのもありかと。
帰りに、当時の城下町だった土佐街道へ寄り、いくつか残っているという高取城の遺構を見学してきた。(猿石をまっすぐ下ると土佐街道へ出る)
まずは「松ノ門」遺構。明治の廃城後、松ノ門は小学校に移築されたが昭和19年の火災で一部焼失、残存部分を解体保管していたものを、平成16年に復元したとのこと。
これがその松の門 復元。復元の際に残存していた(焼け残った)当時材のみを利用したため、当時の薬医門ではなく冠木門 風になってしまっている。屋根の部分は完全に焼けてしまったということか。
次に土佐街道沿いにある「石川医院」。観光協会ブックレットによると、石川医院の表門は下屋敷(藩主邸)の表門を移築したものという。リフォームにより建物と一体化してしまっているため、扉周囲ぐらいにしか当時材は無いのかもしれないが、この看板文字「石川醫院」といい、扉の金具といい、重厚感たっぷり。
土佐街道沿いに建っていた、高取城CGの大看板。城下町から見上げる往年の高取城の姿は、きっとこんなだったろうという図。街の向こうにこんなのが見えたらそれは壮観だろう。
おまけ:ビールの空き缶(35679個)を使って高取城の天守を造って「アルミ缶造形世界一」でギネスブックに載ったという話。
※当ページは高取城訪問記の旧ページ (2013年版) です。詳細版 (201512) も御覧下さい。
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訪問時期:2013年9月
撮影機器:SONY NEX-C3
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