臼杵城 訪問記 其の二。
[前回までの訪問記 概要]
古橋口から入城、岩場をくり抜いたような急な坂道を登り、現存畳櫓を通って帯曲輪へ。大門櫓を越えて、二之丸へ入ろう。
訪問時期:2017年1月
臼杵城 訪問記 − 其の一、二、三、四。
<訪問記>
帯曲輪の少し出っ張った先には、鐘楼がある。
時鐘 説明碑。1700年(元禄十三年)に鋳造され、江戸末期まで原山時鐘堂(恐らくここにあった櫓のこと)で時を告げる鐘の役割を果たしていたというこの鐘は、明治の廃城時に畳櫓横へ移築されたが、2008年にこの地に復帰、2010年に時報櫓として整備を行った、とある。時間が来たら自動的に鐘の音が鳴る仕組みか。
帯曲輪はこのまま二之丸・本丸の外周を奥に伸びている。図面を見ると、この奥へ進めば、稲葉氏の時代に新たに築かれた、三ノ丸から入城するための新橋口と、そこに繋がる桝形の上之門跡、中之門跡、などがある。こちらは帰りに行ってみよう。
引き返す。二之丸西面の石垣全景。冬だから木が枯れてて見えるけど、夏場は手前しか見えないことだろう。
二之丸大手門、大門櫓の真下へ。では、いざ行かん。
二之丸入ったところから。二之丸には臼杵護国神社が鎮座している。神社までの参道の入口にあたるのか、左側の道には鳥居が建てられていた。正面の白い説明板は臼杵護国神社の由来記。
石版に彫られた大門櫓の説明板。稲葉氏が入った1600年代初期に造られ、火事で燃えたが1768年に再建されたものが明治初年まで残っていたという。例によって廃城で取り壊された。古絵図、写真、発掘調査などの情報から当時の姿をほぼ再現したという。
大門櫓を裏側から。一階部分は番所的な場所もなく、柱と門扉のみ。本柱と控柱の間を板が通してある。
古絵図を見ると二之丸・本丸にはかなり多数の櫓が建ち並んでいたようだ。大門櫓から少し奥へ行ったところに残る巨大な石垣の土台。会所櫓跡。
切りそろえられた石材がビッシリ積み上げられた櫓台。上にあがってみよう。
会所櫓台の上。城下方面を見る。
会所櫓台から大門櫓まで続く多聞櫓跡。
今度は反対側、大門櫓入ってすぐ右側に残る、こちらも巨大な櫓台へ。
櫓台の下へ。こちらは外部に巨大な階段が設けてある。会所櫓の石垣の内部に設けられた小さな階段とはかなり違う。井楼櫓跡。
こちらは西側に建っていることもあり、展望台としてバッチリな場所にあるからか、柵が設けてあった。
井楼櫓跡の真下には、現存の畳櫓。
井楼櫓跡から、大門櫓とその下の帯曲輪を見下ろす。
井楼櫓台の上に設置されている、二之丸・二之丸御殿 説明板。発掘調査から、大友宗麟時代にはここには瓦葺きの建物はなく、漆喰の土塀が築かれていたことが分かったという。
では二之丸奥へ向かおう。
かつての二之丸御殿裏にあった庭園を利用したのか、橋の向こうに本殿が建つ、珍しい構造の臼杵護国神社。護国神社らしく、砲弾なども奉納・展示されていた。
臼杵護国神社。庭園を取り込むような形。
こちらの櫓台はほぼ崩壊してしまっている。
江戸期を通じて城主だった稲葉氏は、かつては美濃の斎藤道三に仕えた「美濃三人衆」の一人・稲葉一鉄の子孫。その後 信長に仕え、各地を転戦し武功を上げた名将。臼杵藩初代の稲葉貞通は、一徹の子。
そして最初にこの地に城を築いたと言われる大友宗麟は、銅像ではなくブロンズ製のレリーフが建てられている。ちなみに大友宗麟の銅像は府内城近くの駅前にある。
大友宗麟公 説明板。戦前に造られたレリーフは戦時に供出され失われたが、1982年に復元制作されたという。
大友宗麟公 レリーフ。キリシタンで海外貿易に熱心に取り組んでいた宗麟らしく、西洋風の椅子に座り、十字架をぶら下げ、船や大砲が周りに描かれている。
レリーフの脇には巨大な砲塔。臼杵城へ攻め込んできた島津軍を撃退したという「国崩」(フランキ砲)。当然 実物ではなく、レプリカ。
後方はかなりデザイン性に富んでいる。
フランキ砲 説明板。佛狼機砲。日本初の大砲。大友宗麟により「国崩」と命名された大砲は、江戸期を通じて臼杵にあり、明治の廃藩置県の後に国に献上され、現在は靖国神社にあるという。これはその複製だとか。
>> 臼杵城 [3/4] へ続く。<<
訪問時期:2017年1月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF14mm
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