臼杵城 [1/4] 大友宗麟が築いた、島まるごと要塞化のお城。

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臼杵城 (うすきじょう) は、戦国時代 臼杵湾に浮かぶ丹生島 (にゅうじま) に大友宗麟が築いた丹生島城を、大友氏改易後に入国した太田氏、稲葉氏によって総石垣造りの近代城郭に大改修された「島の城」。現在は周囲の海は埋め立てられ、小山状態となっている。三重の天守を持ち、多数の重箱櫓を持つ巨大城郭だったが、明治の廃城令で建造物はほぼ撤去された。現在 畳櫓と卯寅口門脇櫓の二棟が現存、二之丸大手門が復元された。大友宗麟時代、攻撃してきた島津軍を「フランキ砲」「国崩し」などの大砲を駆使して撃退したことで有名。

<基本データ>
●名称:臼杵城 (Wikipedia)
●所在:大分県臼杵市 (地図)
●城主:大友宗麟 / 太田一吉 / 稲葉貞通
●築城:1562年 / 1597年 / 1600年
●遺構:畳櫓、卯虎口門脇櫓、石垣、空堀
●情報:続日本百名城 No.193 (一覧)

訪問時期:2017年1月
臼杵城 訪問記 − 其の一


<訪問記>

usuki_01_2701かつては臼杵湾に浮かぶ島に築かれた城だった臼杵城は、現在はすっかり埋め立てられ「都会の小山」の上に建つ城と化している。こちらはかつて城の西側に築かれていた九州本土との接続点側。干拓地を大元宗麟が埋め立て城下町化したという。北と南と東側は海だった。

usuki_02_2708正面に見える櫓門は、復元された二之丸大手門、大門櫓。右側の二重櫓は現存の畳櫓だ。土塀も復元。

usuki_03_2716正面から。ここは大手口にあたり、古橋の左右は水堀となっている。橋の左側は島の岩盤そのままを利用しており、右側には平櫓が建っていた。

usuki_04_2916古橋の前に建つ城跡碑。

usuki_05_2721堀の中に飛び出すように作られたスペース。岩盤が目の前に見える。この写真の左側あたりに幾つかの説明板が設置されている。

usuki_06_2722-2歴史資料に見る臼杵城のうつりかわり。江戸初期(寛永期・1628頃)、江戸中期(延宝元禄期・1676-1689頃)、幕末(1862頃)の三期に描かれた古絵図を掲載。左側の図に比べ、右側は城のある丹生島の上に描かれた砂州が大きくなり開発が進んでいることが分かる。

usuki_07_2722江戸初期に描かれた臼杵城下絵図のアップ。上が北。西以外は完全に海で、西側も細い橋2本で繋がっただけとなっている。現在は、左上の臼杵川以外の部分はほぼ全面的に埋め立てられ陸地になっている。

usuki_08_2723臼杵城跡 説明板。

usuki_09_2724説明板があるところあたりからの内堀と古橋。カモさんたちの家がある。

usuki_10_2729では城内へ上がっていこう。かつての城門跡には鳥居が立ち、手前には大きな石灯籠が設置されている。

usuki_11_2731入って直ぐ右側の石垣はかつての平櫓跡。古橋門櫓跡と石碑が建つ。手前には古橋門の礎石も残る。

usuki_12_2732古橋門を越えて奥へ。正面に高石垣がそびえ、上へあがるにはぐるっと回り込まされるような構造になっている。左下に建っている標柱には「鐙坂(あぶみさか)」と書かれている。

usuki_13_2733臼杵城跡 説明板。右下の図面(幕末)と、右上の図面(現在。赤が臼杵城跡)との姿の違いに注目。

usuki_15_2735城の上へはこのように岩場をくり抜いたような道「鐙坂」をぐるぐる回りながら上がっていく。まさに海上の要塞。

usuki_16_2740岩場の曲がりくねった鐙坂と、その奥にそびえる櫓群が一望の場所。定番写真スポット。櫓門の向こう側が二之丸にあたる。

usuki_17_2741鎌倉の切り通しか、薩摩のシラス台地の城(参考 知覧城)のような印象の、岩盤に囲まれた鐙坂。

usuki_18_2742上へあがってきた。ここは二之丸の手前、細長い帯曲輪(左の石垣の上)に至る通路部分。かつてはこの突き当りに巨大な櫓門があったという。ここもまだ鐙坂の一部か。

usuki_19_2743見返すと帯曲輪の長大な石垣。やや形を整えてビッシリと隙間なく積み上げられている。打込み接ぎか。

usuki_20_2744かつて城門があった場所に、現在は石鳥居が建つ。この角度では分かり辛いが、ここは桝形虎口となっている。

usuki_21_2746上の段の帯曲輪へ入る場所に位置する枡形虎口。稲葉氏時代に築かれたという。石垣もキレイに切りそろえられた切込み接ぎだ。石垣の前に立っている石碑には「中門櫓跡」と書かれている(雨で濡れて真っ黒なので写真では見えない)。正面は現存 畳櫓。畳が敷かれていたのか、本丸から見て巽(たつみ)の方角だからか、命名の由来は不明だとか。

usuki_22_2749奥に二之丸の高石垣が見えてきた。

usuki_23_2751この角度から見ると桝形っぽい礎石列が見える。右側の石垣の上に乗りかかるような形で櫓門が建っていたのだろうか。

usuki_24_2750中門櫓跡の石碑と礎石。

usuki_25_2752現存 畳櫓を正面から。臼杵城の櫓は全体的にこのように二階と一階が同じ広さになっている、いわゆる「重箱櫓」というスタイルだったようだ。

usuki_26_2755畳櫓の左側にある石垣の上には、二之丸を守る二層の井楼櫓(せいろうやぐら)があった。

usuki_27_2753そして二之丸の入り口、巨大な櫓門。二之丸大手門にあたる「大門櫓」。

usuki_28_2761大門櫓。巨大で立派だ。左右の石垣の上には土塀か多聞櫓が連結していたのだろう。こちらは昭和の復元。現存しているのは先程見た畳櫓と、本丸の奥に建つ二層の卯寅口門脇櫓、の二棟のみ。

usuki_29_2757帯曲輪 説明板。大友宗麟の築城した臼杵城には先程の大門櫓は無く、本丸に入るにはこのまま帯曲輪をまっすぐ本丸の東側まで進み、そこにある空堀の脇から上がるルートだったという。稲葉氏の時代に三ノ丸から北側へ上がる「今橋口」が新たに築かれそちらには上之門・中之門、そしてここ旧来の道(古橋口)は中門櫓・大門櫓が築かれたそうだ。

usuki_30_2760城内の小さな柱の上には、今の姿に改築した稲葉氏一族の名前がズラリ。江戸期を通じて15代270年、城主を勤め上げた。家紋は「折敷に三文字」と呼ばれる、八角形の中に「三」が描いてあるもの。

usuki_31_2762帯曲輪から先程登ってきた登城路を見返す。

>> 臼杵城 [2/4] へ続く。<<

訪問時期:2017年1月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF14mm
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