浦添城 [1/3] 美しく復元された巨大王陵がある小山の城跡。

浦添城 (うらそえじょう) は小山の上に建てられた古琉球時代の中山王グスク跡で、城域に隣接して琉球王国初期の王陵「浦添ようどれ」があることで有名。1200年代にグスクが築かれ、1600年代初期の薩摩軍侵攻で陥落、以後は王陵となった。沖縄戦で日本軍の防衛拠点となり、米軍と激戦を繰り広げた結果、城跡遺構は壊滅した。今も城内には多くの壕跡が残る。戦後 琉球政府が王陵墓室を復元、平成になって王陵一帯(浦添ようどれ)が復元され、現在はグスク跡の発掘調査・復元工事が進められている。

<基本データ>
●名称:浦添城 (Wikipedia)
●所在:沖縄県浦添市 (地図)
●築主:英祖王
●築城:13世紀頃
●遺構:井戸跡、復元石垣、復元陵墓 等

Links: 浦添城 訪問記 其の一


<訪問記>

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浦添城跡へ向かおう。城跡は住宅街の奥にある高台の上にある。住宅街のあたりから既に緩やかな坂道が始まる。看板に従って住宅街の奥へ向かおう。「ようどれ」とは、琉球国初期の王陵のことで、琉球語で「夕凪」を意味するという。

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住宅街の中にあった「仲間の歴史マップ」。仲間とは地名のこと。地図の右側、山上に「浦添グスク」「浦添ようどれ」がある。その山麓にも当時から多くの遥拝所などがあったようだ。遥拝所めぐりは帰りに時間があったらにして、まずは坂道をどんどんあがってグスクへ向かう。

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住宅街を越えて、一段と急になってきた坂道をあがると、左手に「浦添グスクようどれ館」なる歴史博物館が。パンフやマップをもらうがてら、寄ってみよう。

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浦添グスク「ようどれ館」。大人100円。安い。中には白黒の城跡マップ(手書きイラスト風)と、カラーの美麗パンフ(A4三つ折)があるので、もらい忘れないように。

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中の展示を幾つかご紹介。浦添グスクの歴史と発掘調査、出土品などを展示している。浦添グスクの遺構見どころマップ。

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ちょっと怖い鬼瓦は、正殿付近で採集されたという。個人所有(国史跡になる前か)だったものを、寄贈によりここに展示。

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日本の甲冑にまつわる出土品もある模様。矢尻などもあるので、薩摩軍が攻めてきたとき(琉球侵攻、1609年)のものだろうか。

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近代(修復前)の浦添ようどれの様子。

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浦添ようどれの奥にある王陵の室内。当然現地は立入禁止だが、なんと、このようどれ館の中に、王陵の内部をそっくりそのまま再現しているという。これはすごい。

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こちらが浦添ようどれの王陵内(再現)。岩盤をくりぬいて石室にしている。

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15世紀頃と推定される、石厨子(いしずし)。かなりリアルに復元されている。

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ようどれ館の前へ。何か巨大な石板?が展示されている。

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浦添市西海岸の石切場跡 説明板。石切場跡が発掘されたが、国道になる(埋め戻されるor破壊される)からか、一部を切り取ってここに保存展示しているとか。すごい。

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では ようどれ館から更に坂を上がって城跡へ向かおう。やがて駐車場に着いた。右へ進めば城の下へ。左へ進めば「ようどれ」と城跡の上へ。左へ進む。

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左の道へ。案内板がいくつか建っている。

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昭和に建てられた古い城跡説明板。写真は戦前の「ようどれ」の様子。「ようどれ」は1945年の沖縄戦で米軍により破壊され、王陵(石室)部分は1955年に復元されたが、石垣部など全体が復元されたのは2005年(平成17年)。この看板が設置された時点ではまだ復元前or復元中だったので、古い写真だけを載せているのだろう。

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そして復元が完了した後に新たに建てられた案内板。復元された石垣がバッチリ描かれている。年表にも「2005年 ようどれの復元完了」と書かれている。なおこちらは「ようどれ」のみの説明板なので、先ほどの説明板はあれはあれで必要ということか。

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浦添ようどれ 部分の絵図をアップ。三重の石垣が組み上げられ、城門や石垣で繋がり、最上部に石室があるようだ。

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では「ようどれ」へ向かおう。この石段を、降りる。ようどれは上にあるのかと思いきや、一旦下へ降りて、ようどれ内部の階段で再度上にあがる構造になっているようだ。

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琉球石灰岩の独特の石壁に沿って造られた階段。結構距離がある。

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緑のトンネル的な階段を越えると、視界が開け、目の前に岩盤に張り付く巨大石垣が! 階段を上がって上に行きたい衝動を少し抑え、まずは左側に降りて石垣全体を下から眺めてみよう。

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かなり奥の方まで石垣が組み上げられている。中途半端に降りても全貌は全く見えないので、広場の一番下まで降りてみよう。

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浦添ようどれ 石垣。右側が見切れているが、先ほど降りてきた階段付近にも石垣が組んであり、かなり長大な石垣だったことが分かる。ようどれ自体は石垣三段構成で、更にその上の奥に見える石垣は、浦添グスクの方の石垣(こちらも復元)。

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正面から浦添ようどれの石垣全景。距離が撮れず正面からこの広いようどれ石垣を全て収めるには超広角が必要。

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ではそろそろ、ようどれの内部へ行ってみよう。石の坂道が見えるが、その上に木の階段が設置されている。

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細い城内路を通って奥へ。琉球石灰岩の岩盤と積み上げた石垣とがうまく組み合わさった構造だ。横の説明板を見てみる。

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昭和9年ころの写真。この道の奥は「暗しん御門」と呼ばれ、当時は岩盤が上部を覆っていて埋門的なイメージの門だったが、例によって米軍砲撃により岩盤が崩壊し、今はこのような普通の道になってしまった。石垣は復元できても、岩盤は復元できない。

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現在の「暗しん御門」の様子。上の写真とは全く様相が違う。

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道にそって左へ曲がると、「二番庭」と呼ばれる狭い枡形状の場所へ。ここにはかつて城門があったのだろう、階段の左右に礎石が見える。

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二番庭から、石室のある一番庭へと通じるアーチ城門。

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アーチ城門を越えて、石室のある一番庭へ。広い。右側の白い部分の奥が石室。

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ようどれ内には石室が2つある。手前にあるのが「西室」、英祖王陵。例によって米軍によりめちゃくちゃに壊されたが、古写真等を元に復元。先ほど見た「ようどれ館」で再現されていたのは、こちらの内部。

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もう1つの石室、東室。こちらは尚寧王陵。左右には巨大な壁があり、その上には小さな「石獅子」が載っている(向かって左側)。なお右側の壁の上にもかつて対になる石獅子があったが、これも米軍の砲撃により破壊された。

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一番庭の最奥部。石垣が岩盤に向かって曲がって連結している。遥拝所のような石積みなども見られる。

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ようどれ一番庭 全景。なお写真左端に写っている小さな石碑は「ようとれのひのもん」(極楽山之碑) と呼ばれ、尚寧王がかつて王陵を改修した際に建てられたもの (1620年建立) だったが、こちらも現物は米軍が破壊した。現在あるのは戦後の琉球政府による復元物。柵で囲われた立入禁止区域に建っているので、何が書いてあるかなど細かく見ることは出来ない(パンフに内容の要約は載っている)。

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一番庭から見下ろす城下の様子。

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再び降りてきた。琉球石灰岩の岩盤と石垣のコンビネーションが素晴らしい場所。

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上記と同じような構図で捉えた、昭和6年の写真。緑で覆われており、暗しん御門も健在で、今とはかなり様相が異なる。

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沖縄戦で米軍により徹底的に破壊された浦添ようどれの古写真。戦後5年経ってからの写真だが、無残な状態を晒している。石垣はおろか、石室の壁も失われ、ぽっかりと岩盤に穴が空いている。上の方に少し石垣が見える。この5年後、琉球政府により石室部分が復元され、更に50年後の2005年になって、やっと「ようどれ」の石垣全体が復元された。

>> 浦添城 [2/3] へ続く。<<

訪問時期:2015年12月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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