園部城 [3/4] かつての城の玄関口、北大手門跡へ。 投稿日: 2023/05/202023/05/23 投稿者: akiou 園部城 訪問記 その三です。 訪問時期:2023年5月園部城 訪問記 − その一、その二、その三、その四。 <訪問記> 園部城 巽櫓二階から南側を望む。少し左の方向の山裾に、藩主・小出氏の墓所がある(佛教大学キャンパス内)。園部城 巽櫓二階から北側を望む。番所と櫓門が目の前に見える。奥の高い木が立っているあたりに、かつては太鼓櫓があった。櫓門の屋根にある小出氏の家紋入り鬼瓦と鯱。巽櫓内に置かれていた壺。中がくり抜かれて校門(櫓門)の模型が象られている。すごい!巽櫓一階全景。園部城まつりではテニスコートも開放されていた。テニスコート側から見た巽櫓と櫓門。巽櫓と櫓門。巽櫓を本丸外の方向から見る。一階正面に大きなドアがあるが、あれは近代に増設されたものとのこと。手前の石垣も櫓門の手前に増設されており、本来は石垣ギリギリの上に櫓が建っていたので、あの位置に扉があっても入れない。テニスコート側から巽櫓を見上げるの図。巽櫓側の石垣と、櫓門の前にあるスロープ側面の石垣。スロープ石垣は落とし積みだが明治の築城の際に積まれたものなら現存石垣だろうか。櫓門側面の石垣。学校の北側、駐車場からよく見える位置に建つ、お城の形をした南丹市国際交流会館。なのだが、園部城まつりの日は工事中で見えず。工事中の国際交流会館の内部では、南丹お城サミットの一環で歴史教室会場があった。その前に置かれていた甲冑一式。小出氏の「小」の字が胴に描かれている。二枚の銅板を蝶番と紐で固定した「仏二枚胴具足」。兜は日根野型 頭形兜(ずなりかぶと)。戦国後期の作で、戦が多く需要が高まり、大量生産が可能なシンプルな形が普及していたという。有事に小出家が領民に貸し出していた「御貸具足」と思われる。伝・小出吉親公が大阪の陣で着用した甲冑。鉄錆地仏二枚胴具足。胴と兜にある凹みは試し撃ちの跡だとか。色鮮やかなこの甲冑は、本小札紺糸威二枚胴具足。詳細は不明だが説明によると江戸後期のものとのこと。非常に綺麗な状態で残っていることから、とても大切に保存されていたことがわかる。では城の痕跡を求めて周囲を散策しよう。園部城まつりの一環で堀跡を巡るツアーがあったので参加した。図の青い線は堀跡(多くは空堀だったとか)、黄色い線は道を表す。右が北。本丸の北側に位置する、新建三崇社碑。小出氏草創の小出秀政・吉政・吉親の3人を祀る社がかつて乾櫓の傍に建てられていたが、それが失われて久しい幕末期にそれがあったことを説明する碑(これ)が建てられた。廃城により乾櫓も失われ、この碑だけが園部公園に移されている。奥に見える小山は「小麦山」で、明治に城となった際に山上には三層櫓が建てられたという。園部公園の北側を東西に通るまっすぐの道。かつて北大手門がここにあったという。こういう立派な櫓門が道をふさぐように建っていました、の図。この櫓門左右に隣接して作られていた土塁が、今も残る。 >> 園部城 [4/4] へ続く。<< 訪問時期:2023年5月撮影機器:FUJIFILM X-T20 + XF10-24mm 記事が面白かったら下のバナーを押してくださいね。励みになります! 共有Facebook で共有するにはクリックしてください (新しいウィンドウで開きます)クリックして Twitter で共有 (新しいウィンドウで開きます)クリックして友達にメールでリンクを送信 (新しいウィンドウで開きます) 関連