首里城(2015) [4/4] 正殿に対し左に曲がる「浮道」の謎。 投稿日: 2023/03/072023/02/25 投稿者: akiou 首里城(2015) 訪問記 其の四。 [前回までの訪問記 概要]ゆいレール首里駅から城壁に沿って守礼門を通り、主殿群へ。日本様式の建造物である南殿、琉球様式の弁柄色に内外を染め上げた正殿の内部を見学。その4では正殿1階を見学し、閉園間際で誰も居なくなった御庭を見て、城外へ向かいます。 訪問時期:2015年2月首里城(2015) 訪問記 − 其の一、二、三、四。 <訪問記> 正殿2階から1階へ降りてきた。2階の玉座がある場所の真下に1階にも御座所がある、珍しい構造をしているとか。正殿1階の御座所、「御差床(うさすか)」。奥の階段は国王専用で、普段2階に居る国王はこの階段から1階に出御した。正殿1階は「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれ、主に政治や儀式を執り行う場所だった。御差床。2階より天井が低いが、同じく御座所の左右に龍と雲が描かれた柱が立っている。こちらには椅子がなく、畳の上に座る日本式なイメージなのか、ただ単に椅子が置かれていないだけ?1階御差床 説明板。左右の一段下がった漆塗りの床は国王の子孫が着座するスペースだとか。正殿1階 御差床 全景。首里城の正殿含め建物群は、沖縄戦で壊滅した後に再建されたものだが、その地下に当時の遺構が残っている。正殿地下が一部透明パネルになっていて、地下の遺構が直接見られるようになっていた。ちなみに正殿は記録によると過去5回(令和含む)焼失している(1453年[享徳2年、志魯・布里の乱]・1660年[万治3年]・1709年[宝永6年]・1945年[昭和20年]・2019年[令和元年])。過去の首里城正殿の石積み遺構。首里城 正殿前・御庭での冊封儀式の模型。ずらりと並ぶ臣下たち。正殿2階・唐玻豊(唐破風の奥)には国王が鎮座している。冊封使(中国皇帝の使者)は正殿の前の闕庭(けってい)に座っている。中国の国書を読み上げているシーン。正殿を出てきた。閉園間近になってきて、御庭内にほとんど人が居なくなった。御庭には中央の「浮道」(琉球王国時代は15cmほど高く浮いたように作られていたため)と、左右の列から成る。よく見ると中央の浮道は正殿の真正面ではなく、正殿正面に対して少し左側に曲がった形で斜めに作られている。その理由は記録に無く不明らしいが、正殿に対し曲がっているものの手前の奉神門およびその奥の御嶽に対してまっすぐであり、それに由来するのでは? または風水?とも言われているとか。正殿の真正面から見た図。浮道は左へ曲がっていく。儀式の際はこの浮道をまっすぐに冊封使などが歩いて国王のいる正殿へ向かうため、国王側が少し横を向いて冊封使らを迎えていたことになる。正殿を正面から。柱だけでなく屋根や唐破風の上など、龍のモチーフが多い。封神門を出てきた。少し中国式っぽい雰囲気の狛犬が居た。首里城は、龍(中国式)、狛犬(日本式)、シーサー(琉球式)と周辺各国の文化をそのまま取り入れている。首里城公園図。正殿群をキレイに描いた案内図。奉神門の正面にある首里森御嶽(すいむいうたき)。首里城が建つ前からここにあったとされ、琉球の神話で神が最初に降り立った地とされている。御庭の浮道が曲がっているのは、ここからまっすぐ延びているから、とも。では内郭から外周石垣の方へ向かおう。左側の石垣の切れ目の向こうは「京の内」と言われる古い御嶽のあるエリア。最初の首里グスクが建てられた場所とも言われる。内郭と外郭を隔てるアーチ門、木曳門(こびきもん)。上に櫓が乗るでもなく門扉があるでもなく、変わった雰囲気もあるこの木曳門は、当時は石で塞がれており、首里城の修理の際に木材を通すために開けられ主要部まで直行できる、特殊な門だったとのこと。木曳門を出て外郭石垣に沿って少し歩くと、巨大な高石垣があらわれた。西のアザナと呼ばれる展望台の下に出た。上にあがると遠く海の向こうまで眺望できるとか。今回はその下の石垣を見てみよう。西のアザナの高石垣。すばらしい。当時は西側を見張る物見台といったところか。木曳門を出た少し先で首里城跡碑を発見。その近くには琉球大学跡碑も。細いのも首里城跡碑。守礼門まで帰ってきた。おつかれさまでした。 首里城(2015) 訪問記 − 其の一、二、三、四。 訪問時期:2015年2月撮影機器:FUJIFILM X-T20 + XF10-24mm ページの一番上に戻る 共有Facebook で共有するにはクリックしてください (新しいウィンドウで開きます)クリックして Twitter で共有 (新しいウィンドウで開きます)クリックして友達にメールでリンクを送信 (新しいウィンドウで開きます) 関連