西生浦城 [2/4] 当時とは全く異なる姿に組み換えられてしまった二ノ丸石垣。

西生浦城 訪問記 其の二。

[前回までの訪問記 概要]
登り石垣脇の案内所より散策開始。歩いて山を5分ほど登ると巨大な大手門跡へ到達。過去の写真との比較により明らかに元通りではない適当な積み変えがされていた。目地が揃っていないことからか、現場で感じる強烈な違和感。大手門跡を越えて急な坂道を上がり、3つの虎口をもつ中間の郭へやってきた。

訪問時期:2017年11月

西生浦城 訪問記 − 其の一
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<訪問記>

wajo_sosenpo-32_6943山上主要部と大手門の中間にある曲輪から本丸方面を見る。ここの曲輪は現地説明板等にも「曲輪」とだけ紹介されていて説明に苦労する。搦手口がある南の曲輪なので、南搦手曲輪と勝手に命名しよう。

南搦手曲輪の3つの虎口のうちの1つ、主郭部搦手口。鍵型に曲がる食い違い虎口となっている。曲輪の上に築かれている石垣は低いが、当時はこの上に堅固な櫓門が建っており、南側の山の斜面を上がってきた敵兵を寄せ付けない防御力を誇っていたことだろう。

wajo_sosenpo-34_6739南搦手曲輪は削平されており、本来は斜面になっていた。虎口の内部はその斜面が残っており、何段かの石段が残っている。よく見ると左右の石垣の高さが異なる、石垣をまたぐ櫓門ではなく高麗門のような城門だったのだろうか?釜山浦や蔚山など大規模な戦いがあった城は絵図が残っているが、西生浦は小規模な戦闘のみだったこともあり、当時を見た人による古絵図は描かれていないようだ。

wajo_sosenpo-35_6740主郭部搦手口の斜面出口側。左側は南搦手曲輪の外周石垣、右側はおそらく櫓台だったのだろう、しっかりと積み上げられている。

wajo_sosenpo-36_6741主郭部搦手口の外側から虎口を見上げる。左右の石積みはかなり印象が異なる。また虎口の内部も3−4段の石段が見える。枯葉を掃除したらキレイな階段が出てきそうだ。

wajo_sosenpo-37_6742主郭部搦手口の櫓台部。隅部は反りを持ち、しっかりと積み上げられている。

wajo_sosenpo-38_6743主郭部搦手口から、南搦手曲輪の外周石垣を見る。曲輪の上にいると気づかないが、斜面の上に結構な高さの石垣が築かれていた。奥は櫓が建っていたのだろう、張り出し部が見える。

wajo_sosenpo-39_6744主郭部搦手口の曲輪への入口部分。

wajo_sosenpo-40_6936主郭部搦手口の石段を、南搦手曲輪側から覗き込む。中は結構な斜面、これは石段を作らないと上がれない。そして入口部分から虎口の中に進むにつれ道幅がかなり細くなっていくことが分かる。

wajo_sosenpo-41_6747石垣の上から南搦手曲輪を見る。石垣の右側は本丸方面へ向かう道、左側は大手口から坂道を登って入ってきた食い違い虎口。

wajo_sosenpo-42_6745大手口からの食い違い虎口を上から見下ろす。

wajo_sosenpo-43_6751食い違い虎口の手前の石垣上から。石垣の城壁を複雑に組み上げ、見通しの悪い立体迷路を作り上げている。すごい。

wajo_sosenpo-44_6750では最後の坂道を上がって本丸へ向かおう。

wajo_sosenpo-45_6754ここまで来ると山麓の視界がひらけてきた。かつてこの城が守っていた軍港は埋め立てられ、海岸線は遥か向こうになっている。

wajo_sosenpo-46_6755坂道を上がると、巨大な石垣が見えてきた!

wajo_sosenpo-47_6757キレイな土塁の上に組み上げられた、キレイな石垣。修復工事がなされたのだろう。工事前の姿を先人のサイト掲載の写真(2001年)で見てみると、当時は目地がある程度そろっているが、現状はこのとおりグチャグチャ。残念ながら、まったくオリジナルとは異なる姿のようだ。これでは復元でも改修でもなく、作り変えだ。

wajo_sosenpo-48_6760石垣の左側に回り込んで主郭を目指そう。と道を曲がると、石垣の破壊工事中。。。

wajo_sosenpo-49_6761主郭外周部の石垣。番号など全く振っておらず、そのまま崩しているのがよく分かる。技術がないのか、知識がないのか、文化財の保護に対する意識が低いのか、とにかく実に残念な状態。先のサイトを見ると恐らくこの写真だろうが、ちゃんと隅石もあり倭城特有の縦積み石も見られるが、現状は上記の通り全く面影なし。

wajo_sosenpo-50_6762すごい砂埃の中を上がっていこう。この先でもやっているだろう破壊工事を見るのが怖い。。。

wajo_sosenpo-51_6764虎口内部の石垣も特に番号も振らずに壊しているようだ。左側にある巨石は門跡の礎石?

wajo_sosenpo-52_6767s工事現場。かろうじて虎口内側の下部の石材が残っている。算木積みのようだ。ユンボでバンバン崩していた。これが韓国における文化財保護の実態なのだろう。まったく理解できない。

wajo_sosenpo-53_6770主郭部は3つの曲輪から成っている。ここは最初の曲輪。現地の説明板等ではまたも「曲輪」としか書かれておらず不便。本丸曲輪の手前なので「二ノ丸」と勝手に想定し説明する。内部はこのとおり、破壊して持ってきた石材がズラリ。もうどれがどれか、分からない。

wajo_sosenpo-54_6771そんな中、1つだけ巨石が真ん中に置いてあった。

wajo_sosenpo-55_6776巨石をよく見るとフジツボの化石のようなものがへばりついていた。元々は海岸沿いあるいは海中にあった石なのだろう。

wajo_sosenpo-56_6773二ノ丸の奥へ。このあたりはまだ破壊活動が進んでいない模様。これもいつまで持つか分からないので、出来るだけしっかり写真を撮って掲載していこう。

wajo_sosenpo-57_6774石垣の上にあがるための石段が設置されていたようだが、崩壊しており、立入禁止。一見櫓台のようにも見えるが、図面を見ると細長い折れ曲がる石垣のようだ。

wajo_sosenpo-58_6926そしてよく石垣を見ると左側にも稜線があり、石垣が拡張されていることが分かる。かつて左側は石垣の外側との通路(平虎口)になっていたのだろうが、恐らく慶長の役の際に明軍の攻撃から守るために強化した際の改修工事の跡だろう。生々しい! これは見所。

wajo_sosenpo-59_6783本丸石垣の下を見てみると、結構な高さの石垣が積んであり、その下は急な切岸となっている。この斜面を無理矢理登って攻撃しようとしても、この石垣と角度なら、なかなか容易には登ることはできなかっただろう。なおこの左下には畝状竪堀が築かれているらしいが、この通り木々が生い茂り上からではまったく見えなかった。

wajo_sosenpo-60_6780二ノ丸より、次の曲輪、本丸曲輪へと通じる虎口。高さは変わらず、石垣の城壁で折り曲げている。倭城では、巨大な曲輪(平場・削平地)を石垣で仕切って(仕切り石垣)複数の曲輪に分断し、曲輪内部も巨大な立体迷路化させているのも特徴の一つと言われる。それまでの日本の山城では、堀切や段差を設けて曲輪を分割しているケースが多かった。

wajo_sosenpo-61_6784本丸曲輪へ。ここまで来るとまだ工事は行われていなかった。ほっと一安心だが、いずれここも組み替えられてしまうのだろうか。

wajo_sosenpo-62_6788本丸曲輪の説明板。北西端(右手前奥)には天守台とも思われる巨大な櫓台がある。

wajo_sosenpo-63_6787本丸曲輪と二ノ丸とを繋ぐ食い違い虎口。その手前には かつて何かの建物があったかのような礎石が並ぶ。

wajo_sosenpo-64_6789本丸曲輪 南端には四角く区切られた石列。何があったのだろうか。

>> 西生浦城 [3/4] へ続く。<<

訪問時期:2017年11月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF10-24mm
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西生浦城 [2/4] 当時とは全く異なる姿に組み換えられてしまった二ノ丸石垣。” への2件のフィードバック

  1. 西生浦倭城の石垣の修築工事が始まるという情報は昨年から得ていましたが、“着々”と進んでいるようですね…(汗)。

    1. コメントありがとうございます。数年後には、山上の遺構の大半が全く違う姿に積み直されてしまっているかもしれませんね。少なくとも現地で見てそう感じました。お近くに行かれる際はぜひ現地へ行って現場を見てみてください。

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