西生浦城 [4/4] 整備はされていないが今も街を仕切る長大な登り石垣。

西生浦城 訪問記 其の四。

[前回までの訪問記 概要]
巨大な登り石垣と山上の高石垣が数多く残る西生浦城。しかし近年の改修工事で元の姿とは大きく異なる形で積み直されてしまい、文化財としての価値は大きく損なわれている。最も西奥に築かれた馬出し曲輪は改修工事がまだ行われておらず、慶長の役で改修工事された石垣の改増築の跡が色濃く残る見所ポイントだ。其の四では山上の外周石垣を見た後、下山して登り石垣や居館跡などを回ります。

訪問時期:2017年11月
西生浦城 訪問記 − 其の一
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<訪問記>

wajo_sosenpo-95_6886主郭部 西側の馬出し曲輪より、石垣の下へ降りる。北西端の石垣は一見崩れているようにも見えるが、上部を見ると元々凹型になっていたと思わせるような作り。

wajo_sosenpo-96_6883総石垣の城郭は馬出し曲輪までだが、更に西側の山中にも遺構が残る。西側は土塁に囲まれた曲輪。上から見下ろすとよく分かる。その更に向こうには堀切もあるというが時間の都合で未訪。

wajo_sosenpo-97_6888そのまま奥へ石垣(北面)に沿って行くと、石垣が一段低くなった場所へ。ここは先ほど内側から見た、埋めた虎口跡だ。築城当初はここは虎口で、今居る石垣の外側から中に入る事ができた。近寄ってみよう。

wajo_sosenpo-98_6893埋められた虎口跡。下に穴が空いている。上に巨石が乗っており、ここに穴を作るべくして作った構造物だ。何のための穴だろうか。

wajo_sosenpo-99_6896石垣に近寄ってみる。穴の上を守る巨石の上にも切り出されたような四角い石が乗っている。

wajo_sosenpo-100_6895穴の中を覗いてみる。ずっと奥まで穴は続いているが向こう側(馬出し曲輪内部)の光は見えない。土が積もって埋もれてこの高さになった、というわけでも無さそうだ。幅が狭いので高さがあったとしても人が通ることは不可能だっただろう。ちなみに内側を訪問したときはこの穴の向こう側は確認できなかった。当時はもう少し高さがあった(内側の穴は地面の下?)なのかもしれない。詳細不明。超長い鉄砲狭間とか?

wajo_sosenpo-101_6898馬出し曲輪の外周石垣。下の方は二段になっている。朝鮮側の絵図に残るように、ここにハシゴを掛けて攻め込むのは、高さも角度もあり厳しいだろう。

wajo_sosenpo-102_6903よく見ると石材に漢字が彫ってある。1文字目は福と読める。一瞬 刻印かと思われたが、ここは厳戒態勢の敵地朝鮮、そんな余裕も必要も無い。よく見ると福の字が日本語ではなく中国風だ。後世の現地人の落書きか。

では一旦城内へ戻る。また登っていない、本丸と馬出し曲輪の間にあった天守台へ登ってみよう。3つあった入口のうち、天守台北東側のスロープから登る。

wajo_sosenpo-103_6907天守台の入口は、本丸曲輪側と、南側、そして馬出し曲輪側にそれぞれ存在する。馬出し曲輪側はハシゴや続櫓などから登っていたのだろうか、石垣を乗り越えないと入れない構造だった。南側は慶長期に増設されたとされる場所で、崩壊のため入れそうにない。本丸曲輪側は登れそうなスロープ状のルートがあった。これは本丸曲輪側からスロープを登って天守石垣へ張り付いたところ。

wajo_sosenpo-104_6924天守台への虎口。石垣が崩壊していて石段だったのか小さな地階でここから階段等で上がったのか、判断がつかない。

wajo_sosenpo-105_6911と思って天守台に上がってから見返すと、上からは石段が見えた。なかなか大きな石段があったようだ。

wajo_sosenpo-106_6909虎口から見る天守台全景。下に居た時は気づかなかったが、この天守台、かなりデカイ!どれぐらいの規模の天守が建っていたのだろうか。天守台いっぱいに建物が建っていたとは限らないが。

wajo_sosenpo-107_6923地面を見ながら歩いていると、丸く埋め込まれた石材を発見。真ん中が少し欠けており、まさに巨大建造物の柱の一つを支えた礎石という感じだ。

wajo_sosenpo-108_6914そして天守台の特徴の一つ、北側へ。一段低くなっており、先ほど西側で見たとおり、後に拡張された場所だ。同じ高さに拡張しなかったのは謎。

wajo_sosenpo-109_6917北側の増設部分より見返す。元の天守台の一段高くなっているところには石垣も見える。ここには小天守や続櫓が建っていたのか、はたまた土塀で囲っただけの場所だったのか。

wajo_sosenpo-110_6920天守台の上から、先ほど登った馬出し曲輪側の石段およびその奥にある閉塞された虎口跡を見下ろす。そして目の前の黄色いKEEP OUTの札が掛かっているところが、ちょうど石垣の増設部分。上から見ても右側と左側で石材が異なる。最も右側は崩壊した後に誰かが勝手に載せたのかも知れないぐらいの小ぶりな石が乗っているだけ。

wajo_sosenpo-111_6918天守台から北側へ少し覗き込んで見てみる。馬出し曲輪側の外周石垣はこのとおり、天守台より結構張り出した形になっている。元は天守台は数m手前(左側)までしか無かったため、もっと馬出し曲輪は張り出していたか、あるいはあの櫓台風の石垣自体も増設時のものかもしれない。

山上の散策はここまで。下山して、最後に城下に残る登り石垣や居館跡などを見に行ってみよう。

wajo_sosenpo-112_6957まずは最初に登ってきた案内所前の登り石垣を再度見る。山に向かって伸びていく登り石垣が美しい。

wajo_sosenpo-113_6961ここから下を見る。まだまだ先へ伸びているが、石垣の手前が畑になっていて石垣に沿って降りれない。ぐるっと回り込んで登り石垣の先端まで行くしかない。

wajo_sosenpo_6952map2ここで登り石垣の形を確認(図は案内所前の巨大タイルより)。一度大きく折れ曲がり、そのまま南東端の居館跡まで続いているようだ。今居る場所は①、折れ曲がりの②を経て、③の虎口(南門跡)から惣構内部へ入り、④の居館跡を見に行こう。ちなみに北側の登り石垣にも一箇所だけ虎口跡が残るようだが(②から北へ延びる道の先)今回は未訪問。

wajo_sosenpo-114_6963かなり下って、登り石垣の折れ曲がり部(先の図の②)まで来た。何故かこのあたりだけ、石垣に枯れ草が大量に生えたままになっていたのが残念。ちなみに倭城を歩くの表紙に使われている石垣はここだ。

wajo_sosenpo-115_6966倭城を歩く の表紙と同じ構図を狙ってみる。こんな感じか。表紙にあるような石垣に立てかけられた邪魔な藁束は無いが、こちらは枯れ草だらけで残念。右上の石垣の上に建っている柱も、表紙では銀色だが、この写真では枯れ草が巻き付き茶色になっている。このあたりは長らく整備されていないのだろう。

wajo_sosenpo-116_6972s登り石垣の折れ曲がり部を引いて見てみる。右奥の学校の手前あたりが再度の折れ曲がり部だ。よく見ると登り石垣の右奥の方に、上に建物が建っているのが見える。行ってみよう。

wajo_sosenpo-117_6976登り石垣の折れ曲がり部、何と登り石垣の上に建てられた家。石垣はかなり巨大な石が使われている。ここに見張りの櫓でも建っていたのだろうか。

wajo_sosenpo-118_6980では更に登り石垣の先へ進もう。先の図の③にあたる、虎口跡へ。道路が通っていて一部石垣が壊されているようだが、良好に残る。正面の高い石垣の上は居館跡。

wajo_sosenpo-119_6981虎口正面へ。本来は食い違い虎口(あるいは枡形虎口)だったようだが、車道を通したからだろう、ほぼ真っすぐになっている。登り石垣に比べ、右側の居館跡の石垣はかなり高い。

wajo_sosenpo-120_6983虎口の内部へ。左奥に櫓台のような形の石垣の先端部が見える。

wajo_sosenpo-121_6991そして右側の居館跡の石垣を見るとここも隅部がある。隅部の左側の石垣は石材もやたら小さく統一感がないので、この上に家などを建てるために埋めたものかも知れない。食い違い虎口あるいは桝形虎口だったと考えると、ここで折れ曲げさせるため、本来はもっと奥に石垣があったのだろう。

wajo_sosenpo-121a_6984南門(south gate)と書かれた看板。左右の石垣を見ると、やはり此処はもっと当時大きく曲げられた食い違い虎口だっただろうと想像できる。

wajo_sosenpo-122_6990さて巨大石垣の上にあがってみよう。居館跡とされる(先の図の④)。登り口は一つ前の写真の奥に見える家の脇あたりにある。上はこのとおり、一面の削平地。

wajo_sosenpo-123_6985なんとここにも史跡碑があった。他の倭城跡でも見られたものと同様の石碑。西生浦城と書いてある。

wajo_sosenpo-124_6987居館跡から眼下を望む。当時は恐らく目の前まで海が迫っていたことだろう。今は盛大に埋め立てられてこの通り。ちなみにこの真下も高石垣なのだが、見忘れた。

wajo_sosenpo-125_6989居館跡の奥、北側は当時の軍港・入江跡とされる。見に行ってみたが、奥へ行けば行くほどこの通りすすきの藪と化していて、入江跡の痕跡を見ることは叶わなかった。

wajo_sosenpo-126_6992西生浦城 遠景。今も遠くからでも山上の要塞跡が視認できる。当時は山上部の木々が伐採され、山頂部に高い櫓や城壁がずらりと並び、山上から山麓へと延びてくる登り石垣が築かれ、まさに一大要塞だったことだろう。

加藤清正や黒田長政らが守り抜いた東海岸の拠点、西生浦城。修復工事の実情は全くひどいものの、良好に残る箇所もまだまだ多い、必見の倭城跡だ。望み薄だが、今後 日本の研究者の手によって まともな調査・復元工事がなされることを祈る。

訪問時期:2017年11月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF10-24mm
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