玉縄城 [1/4] 北条綱成公生誕五百年 玉縄城址遺構探索会へ。

玉縄城は、伊勢宗瑞 (aka北条早雲) が永正九年(1512)に築いた鎌倉唯一の城郭で、当時 公方一派と管領一派の争いにより荒廃しきっていた鎌倉と鶴岡八幡宮の復興と、民のための秩序作りのために関東覇権を目指す宗瑞の前線基地となった。三浦半島の付け根に当たる玉縄の地で、南の三浦氏、北の扇谷上杉氏を牽制した。その後は房総半島の里見氏に対する水軍基地となった。信玄、謙信による北条氏攻めの際もそれらの攻撃を退けた程の堅城として知られる。秀吉の小田原攻めの際に家康軍に降伏開城。江戸時代中期ごろに廃城になったとされる。現在、城跡主要部は清泉女学院の敷地となり多くの遺構は破壊され、更に自由に見学すらできない状況にある。

玉縄城<基本データ>
●名称: 玉縄城 (Wikipedia)
●所在: 神奈川県鎌倉市 (マップ)
●築主: 伊勢宗瑞 (北条早雲)
●築城: 永正九年 (1512年)
●遺構: 土塁、堀切、曲輪跡、櫓台跡 等


<訪問記>

2015年10月17日、玉縄城址まちづくり会議 (Web) さんの主催により三代目玉縄城主だった北条綱成公の生誕500周年記念イベントが開催され、その一環として「玉縄城址 遺構探索会」が行われました。当ページでは探索会で公開された玉縄城跡の遺構のほか、一部イベントの様子も紹介します。

tamanawa-5373玉縄城跡は鎌倉のやや北にあるJR大船駅の近くにある。大船駅から、イベントが開催される「龍寶寺」まで歩いて行こう。山上にそびえるのは「大船観音」。当日の天気予報は雨だったが、実際は空一面が分厚い雲に覆われるもかろうじて雨は降らなかった。

tamanawa-5373a-5707大船駅前の地図より。右下が「大船駅」。駅から川沿いにまっすぐ西(左)へ向かい、北(上)へ進むと、目指す「龍寶寺」がある。城跡は更に北西(左上)の「清泉女学院」の校内にある。

tamanawa-5376龍寶寺へ向かう道すがら、住宅街の中に大木と石碑がある一角を通りかかる。

tamanawa-5376a-5374石碑には「玉縄首塚由来」とある。大永六年(1526)、房総半島を治める里見氏が鎌倉玉縄を急襲、激戦の末 里見氏を撃退するも、両軍とも多くの戦死者を出した。そこで北条氏側は里見氏側にお互いが討ち取った首の交換を申し入れ、この地に葬ったと伝わる。その際にここに塚が築かれた、とあるが、今は塚は大方削られてしまい、大木と石碑、そして供養の五輪塔が目印となっている。

tamanawa-5377s龍寶寺へ到着。山門前には「10月17日 綱成の日まつり」と書かれた看板が掲げられていた。周りの武将の絵は主催の「玉縄城址まちづくり会議」スタッフの似顔絵らしく、これがスタッフ間ではなかなか似ていて好評とのことだった。

tamanawa-5379龍寶寺 山門前では、鎌倉もののふ隊 (Web) の皆さんがそれぞれの具足姿でお出迎え。雰囲気でるー。

tamanawa-5380龍宝寺 看板。玉縄三代城主 北条綱成公が建立した寺で、玉縄北条氏の菩提寺となった。歴代城主の位牌が収められており、江戸時代の山門および江戸中期の民家、そして玉縄城ジオラマや出土品などを展示している資料館がある。ちなみに石碑などは旧字を使った「龍寶寺」表記になっていたが、最近建てられたこの看板のみ「龍宝寺」となっていた。

では境内へ。イベントはすでに始まっていた。

tamanawa-5398プログラムによると、イベントはまず法要が行われ、そして演武披露、その後に探索会、そして昼食を挟んで最後に玉縄城に関するシンポジウムという流れのようだ。訪問時はちょうど演武の始まるところだった。本堂の前の広場にて、城主一族(に扮した偉いさん方)を前に、古武道継承者の方々による本格的な古武道演武が奉納される。

tamanawa-5400s柳生新陰流師範であり武蔵円明流の継承者でもある赤羽根氏と門人による剣術演武。すごい迫力。当日の動画はこちら (youtube)。

tamanawa-5408s門人一同そろって城主一族に礼。これにて奉納演武 終了。続いて、玉縄城址 遺構探索会へ。

tamanawa-5410a-5416人数が多いので3つのグループに分けて探索会は実施された。私は3班に配属。前述の”鎌倉もののふ隊”の方が具足姿で先導し、説明は”まちづくり会議”スタッフの方が行った。

tamanawa-5413探索会に出発する前に、龍宝寺 本堂脇にある「玉縄北条氏供養塔」にまずはお参りしてから、城址へ向けて移動開始。北条氏の家紋は▲が3つ並んだ「三つ鱗」(うろこ)。ファミコン世代にはどう見ても「トライフォース」に思えてならない。

tamanawa-5414玉縄北条氏 供養塔 説明板。あちこち移転しながら、平成24年にここに移設されたそうだ。

では寺の外に出て、探索開始。

tamanawa-5424まずは七曲りに向かう途中の住宅街にある、江戸時代の長屋門。移設されたものらしいが、個人敷地内にあり、外から見るだけ。詳細不明。

tamanawa-5426長屋門の裏側。倉庫状態になっている。

tamanawa-5428長屋門 正面。こちらは敷地の外側にあたるので、正面から見ることが出来る。現在は家の門としても特に使っているわけではなく、扉は閉められっぱなしのようだ。

tamanawa-5429ガイドさんの話によると、この門は元々真っ赤に塗られたいわゆる「赤門」だったそうで、その痕跡が冠木の端になんとなく残っているという。確かに、ちょっと、赤い気もする。

tamanawa-5432長屋門から更に奥へ。こども園の脇にある細い道から、城内へ向けて進む。

tamanawa-5433城内へ続く道。入口に案内板がある。

tamanawa-5434「鎌倉・玉縄城を偲ぶコースマップ」と題された案内図。かなりのモデル図だが、現在は中央やや左の赤丸地点。ここから先に進むと「冠木門」、「七曲坂」を越えて「平場」、「太鼓城址」、「大手門跡」から城址主要部(清泉女学院)へ入り「諏訪壇」「城跡碑」「けまり場」などの遺構を見て、図の右側に抜け、龍宝寺に戻るルートをたどる。

tamanawa-5436では坂道を上がって城跡へ進もう。玉縄城は平山城で、山麓の屋敷部と、これから向かう山上の主要部とに分かれる。

tamanawa-5440s図にあった冠木門。模擬城門だった。道は更に奥へ進む。上の家を見ると、結構高いところまで上がるようだ。

tamanawa-5442「七曲坂」。当時の大手道と想定されている。

tamanawa-5443七曲坂の中盤にある「平場」。尾根の間の登城してきた道をちょうど見下ろす位置に存在する削平地(曲輪)だ。

tamanawa-5445平場から城下を見下ろす。左右に尾根が続き、その間の谷の部分に家臣屋敷が並ぶ、まさに「お城の大手道」に相応しい雰囲気。番所か見張り小屋などが築かれていたのだろうか。

>> 玉縄城 [2/4] へ続く。<<

訪問時期:2015年10月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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