掛川城 [前編] 山内一豊公が建てた東海の名城。

天下統一を成した秀吉は当地を治める家康を関東へ移封させ、代わって “Mr.功名が辻” 山内一豊を掛川城主とした。一豊公は掛川城を3重4階の天守を持つ近世城郭として大改修。東海の名城として謳われるも、1854年の安政大地震により天守・御殿が倒壊、御殿は再建されたが天守は再建されず明治を迎え廃城となった。二の丸御殿や太鼓櫓などが現存し、天守は1994年に再建された(日本初の木造復元天守、外観は古絵図と高知城天守を参考にした一部想像の姿)。

掛川城<基本データ>
●名称: 掛川城 (wikipedia)
●所在: 静岡県掛川市(マップ
●築城: 1590年 / 1621年
●竣工: 山内一豊 / 松平定綱
●遺構: 二の丸御殿、太鼓櫓、移築門
●情報: 掛川城HP掛川市HP

<訪問記>

掛川城はJR東海道本線/新幹線 掛川駅からまっすぐ北へ500mほどで到達できるが、城の手前にある逆川の橋を渡る直前を少し右(東)へ進んだところに、大手門が復元されているのでまずそこから訪問しよう。

kakegawa2-01復元された大手門の前へ。門だけでなく、土塀や門に続く石畳な道も整備されていて良い感じ。左の方に少し天守が見えている。

kakegawa2-02大手門正面へ。屋根に乗る鯱瓦の大きさに驚く。往時はここから50mほど南に建っていたという。なお発掘調査で出てきた柱の礎石根固め石(重量級の門が傾かないよう礎石の下に河原石を幾つも重ねる基礎工事)が、門の内側に移築保存・展示されている。

kakegawa2-03大手門復元に関する説明板。家康の関東移封後に掛川に入った山内一豊公が、それまでの大手筋をここに変更し、この大手門を含む大手郭を構築した。冠木下の高さは14尺6寸(4.4m)あり、乗馬したまま通行できる。地震で倒壊後に再建されたが、明治の廃城後に火災で焼失。元の位置に復元するには道路と家屋に支障をきたすことから、やむなくここに復元したとのこと。

kakegawa2-04大手門の先には、大手門番屋が現存している。大手門番所が現存するのは珍しいらしい。

kakegawa2-05大手門番所 説明板。発掘調査により、大手門と番所の位置関係が正保城絵図の通りであることが判明したため、大手門の復元と同時に同じ位置関係に配置したという。様々な制限がありながらも頑張って往時の姿を忠実に復元しようとする掛川市に感謝。

kakegawa2-06大手門を越えると、城跡との間には東西に逆川が流れている。往時も天然の堀となっていたようだ。逆川にかかる橋の上から掛川城天守を眺める。

kakegawa2-07もう一つ 城寄りの橋の近くから掛川城天守と太鼓櫓(現存)を激写。

kakegawa2-08橋を渡ったところにある、正保城絵図の大きなタイル。おもしろいけど、今どこなのか描いてないのが惜しい。右上の大手門と、これから見る三日月堀の位置関係を見れば現在位置を判定しやすい。

kakegawa2-09正保城絵図タイルを少し先に行くと、復元四足門と復元三日月堀の間に、掛川城公園 石碑が建つ。立派な松。

kakegawa2-09as復元された三日月堀。説明板によると深さ8m、写真を撮った方向の真下には石垣が見つかったという。ここからでは見えないので、後ほど向こう側から見てみよう。

kakegawa2-10では四足門を通って掛川城公園へ。

kakegawa2-11四足門。正保城絵図に則って復元したものの、発掘調査ではここに門があった痕跡が見つからなかった(!)とのこと。

kakegawa2-12s門の内側には、これまた正保城絵図を元にした有田焼の立体模型がある。正保城絵図をベースにしているため、現在の遺構の形とは違っている箇所も多いらしい(天守下の帯曲輪や、城の周りをぐるりと囲む堀・池など)。

kakegawa2-13s三日月堀の内側にはもうひとつ大きな堀「十露盤(そろばん)堀」がある。こちらも発掘調査による復元。

kakegawa2-14四足門の正面の櫓台の上には「太鼓櫓」がある。正保城絵図では「荒和布櫓」という見張り櫓が建っている場所にあたる。このあたりの建物は安政大地震で倒壊しており、この太鼓櫓はその後に別の場所に建てられていたものをここに移築保存したという。なおこの櫓の横には四足門から本丸へ渡るための本丸門という大きな櫓門があったようだが、そちらは復元されていない。

kakegawa2-15本丸から、長い石段の先にある天守を見上げる。さっそく、上がっていこう。

kakegawa2-17左右に折れ曲がる石段は、下の方は腰石垣(土塁の下の方だけを石で巻いたもの)だが、上部へ来ると土塀となる。正保城絵図も、そのようになっているので、こう復元したのだろう。

kakegawa2-18いよいよ天守へ。天守は本丸より数段高い曲輪に建っており、ここを特に天守丸と呼んでいるようだ。なお山内一豊公が入城する前はこの天守丸が本丸扱いだったそうだ。そして天守丸への入口には現在は簡素な冠木門が造られているが、正保城絵図では櫓門が描かれている。

kakegawa2-19天守丸へ入ると、まず眼に入るのはこの井戸。「霧吹き井戸」と名付けられたこの井戸は、永禄12年(1569年) 家康が掛川城に居た今川氏真を攻めた際、この井戸から霧が立ち込め城を包み、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説が残るという。掛川に限らずこういった城跡の井戸には様々な伝説が残るが、その理由として「この城には井戸がある」(=つまり干殺し作戦は通じない) ことを内外に知らしめるために伝説が作られたのではないか、とのこと。なるほど。

kakegawa2-20掛川城 天守 説明板。日本初の木造復元。古絵図や記録などにより少なくとも外観は史実に忠実に再現されたという(内装は記録が無いため同じ山内一豊公が掛川の後に入封し建てた高知城(現存)を参考に作ったとのこと)。入口に附櫓が付いていたり、1層目を正面から見ると大きく見えるよう張り出し部があるなど、小さいながらも大きく見せる工夫がされている。

kakegawa2-21天守を見上げる。よく見ると、石垣と白壁の境目にはトゲトゲが設置され、敵が石垣を登って来られないようになっていることが分かる。2層目の花頭窓と軒唐破風の付いた部分が印象的だ。

では、いざ掛川城天守内へ。

>> 掛川城 [後編] へ続く。<<

訪問時期:2014年2月
撮影機器:SONY NEX-C3
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