飯盛山城 (飯盛城) : 戦国時代の河内摂津の覇者 三好長慶の居城

飯盛山城 (飯盛城) は室町時代に築かれた中世山城で、古くは「太平記」(南北朝合戦) でも登場する場所だが、最も有名なのは戦国時代に摂津河内一帯を支配した三好長慶の居城だった城としてだろう。三好長慶は飯盛山城を本拠とするとその絶大な権力で城を大幅に拡張、現在に残る巨大山城とした。しかし長慶の死後は勢力を伸ばしてきた織田信長の所領となり、その後 廃城となった。同じく三好長慶の居城だった芥川山城などと同じく、当時の石垣が一部残っている。山頂には四條畷/飯盛山付近で討死した南北朝期の武将 楠木正行 (楠木正成の息子) の銅像が建つ。近年 国史跡指定に向けた自治体の活動が行われており、一層の整備が期待される。なお呼称について、資料などでは「飯盛山城」と表記されることが多いものの、自治体では「飯盛城」と呼ぶようで、説明板等はほぼ「飯盛城」表記だった。当サイトでは馴染みの深い「飯盛山城」で統一する (今のところ)。

<基本データ>
●名称: 飯盛山城 [飯盛城] (Wikipedia)
●所在: 大阪府四條畷市/大東市 (マップ)
●築城: 木沢長政 / 三好長慶
●竣工: 天文年間 / 永禄年間
●遺構: 石垣、曲輪、堀切
●情報: 続日本百名城 No.160 (一覧)


<訪問記>

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飯盛山城跡は飯盛山ハイキングコースとなっており、JR四条畷駅近くの「四條畷神社」から登るルートと、JR野崎駅近くの「野崎観音」から登るルートがある。今回は四條畷からのルートで攻城する。写真はJR四条畷駅前の地図より。まずは駅前商店街を抜けて、山麓の四條畷神社を目指す。ちなみに小楠公の墓が駅の反対側にある。

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こちらが四條畷神社 大鳥居 (一の鳥居)。ここからまっすぐ山に向かって歩いて行けば神社へ辿り着くようだ。向かいの山が飯盛山か。

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四條畷神社。菊の御紋入りの木の鳥居の向こうにあるのが拝殿。右側には大楠公 (楠木正成) と小楠公 (楠木正行) との別れの石像が建つ。なお四條畷神社の御祭神は1348年ここ四條畷で戦死したという小楠公 (享年22…) 。

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目的は四條畷神社ではなく飯盛山城跡のため、神社はこれぐらいにして城跡へ向かう。神社の奥に「此山頂 飯盛城址」の石碑が建っていた。石碑基礎知識:此=この、是=これ、從=より。

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石碑の横に山に伸びるこの道から、飯盛山へ向かう。ハイキングコースと侮るなかれ、なかなかの急坂が続く。

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途中、道がよく分かれているが、要所要所にこのような看板が建っているので安心して登ろう。

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途中から石がごろごろし始める。石垣ではないが、当時も大手筋?の城壁として使われた巨石だろうか。などと考えながら登る。

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登ること約40分、最初の曲輪「二の丸史蹟碑郭」へ到着。ここまでは急坂が続いていたが、ここからは尾根沿いの曲輪が続く。※曲輪の名前は本丸に建っている「飯盛城址案内マップ」の表記に従う。マップの画像は後ほど。

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「飯盛山史蹟」石碑。大正13年に当時の四條畷中学校校友会により建てられた石碑には、飯盛山城の生い立ちが簡単に書いてある。古くは建武年間にここで大楠公が北条氏残党を討ち、その後の高師直 (こうの もろなお) と小楠公との四條畷の戦いを経て、室町時代には畠山氏が河内を領し、家臣の木沢長政が築城。その後 件の三好長慶が奪取して城を拡張、しかし織田信長の近畿統一により廃城となる。餘(=余) 黨(=党) 傳(=伝) など、旧字のオンパレード。

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次の曲輪へ向かう道沿いには石垣の断片のようなものと、堀切 (尾根を分断) と竪堀 (斜面に掘られた深い溝) のような地形が見られる。

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二の丸御体塚郭。三好長慶の居城であったここ飯盛山城は、長慶の死後、死体をこの曲輪に3年もの間 (!)、仮埋葬していたという。すごい匂いだったのでは… 土葬ってことかな。ちなみにこの曲輪には「登山参百回記念」という結構高い石碑が立っている (写真中央の木の裏の石積み上)。石碑には「世界最高峰エヴェレスト貳万九千尺 飯盛山高壹千尺 参百倍之参十万尺」とあり (一尺=30cm)「俺は飯盛山に300回登ったので、合計の高さで言えば世界一高いエベレストより高いぞ」という意味か。建てたのは先ほどの石碑と同じ四條畷中学校長。史跡にこういう意味不明な個人的なモノを建てるのはやめて欲しい。国史跡の道は遠い。

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縄張図によるとこの曲輪の下には3箇所石垣があるようなので、曲輪の下へ向かう。階段を降りると曲輪の下へ向かう山道があるのでこの奥へ。小さな曲輪があるあたりの、上を見てみよう。

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石垣その1。横に長く残っており見応えがあるが、かなり坂の上にあるので近くで見る場合は落ちないよう気をつけよう。

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石垣その2。近くまで寄れるが枯れ木の枝が多くあり写真が撮りづらい。現場で見るととても迫力がある。

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石垣その3。ほぼ二の丸御体塚郭の入口付近まで戻ったところにある。ここが一番見やすく、また残存状況も良い。

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次の本丸への道はかなり急峻で、ロープを伝っていく必要がある。岩場を削って作ったという印象。当時はここを甲冑で登ったのだから、トレッキングシューズに登山ウェアの我々が疲れている場合ではない!と鼓舞して上へ。

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その途中にも、虎口のような形をした石垣があった(坂の途中なので虎口ではないと思う)。

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こちらが本丸倉屋敷郭。真ん中の石碑は自然を守ろうというライオンズクラブの碑。ここは木が多く茂り、特に奥の方はほぼ森と化していた。余り整備されていない模様。

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更に奥へ進むと、石段の横 (左側) に小道が。奥にも石垣があるようだ。

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小道横の石垣。ほぼ埋もれているが、上と下に積もった土を掘ったら結構出てきそうな感じもする。国史跡に向けた整備に期待される。

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小道を戻り、石段の上へ。本丸展望台郭。この建物が展望台だろう。右奥には銅像が見える。

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本丸展望台郭から見下ろした眺望。左側の遥か奥の方に高さ300mの「あべのハルカス」が見える。正面の緑は深北緑地。奥の高速は門真と伏見を繋ぐ第二京阪。正面奥の摩天楼は梅田付近か。

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もう1段あがった本丸高櫓郭に上がると、昭和14年に建てられた国旗掲揚台が残る。国威宣揚。

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本丸 高櫓郭に建つ「飯盛城址案内マップ」説明板。城跡のカンタンな歴史と、詳細な縄張図が嬉しい。ただ、ここに到達した時点では既にかなりの曲輪を通過してきているわけで、ここではなく登山口あるいは最初の郭付近に建てて欲しいと願うばかり。登り口が南北2つあるため、予算上の都合1つしか作れなかったから真ん中のここに建てた、ということだろうか。

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飯盛山城 縄張図 部分をアップ。個別の郭や石垣の位置などが細かく描いてあり、非常に役立つ。素晴らしい。

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本丸高櫓郭の中核設備である「飯盛城址」石碑と、銅像2体(右奥にも1体ある)。

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手前の大きな銅像は、ここ四條畷にて僅か22歳で戦死した楠木正行 (小楠公)。飯盛山城を今の規模まで拡張した三好長慶公ではなく、楠木正行がここ四條畷のヒーローのようだ。

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台座が高すぎて細かい部分が見られないが、裏側の造型もなかなか立派にできている。昭和12年建立とあるが、それは台座の話で、上の銅像はやはり戦争で供出され、昭和47年に再建されたものとのこと。ちなみにもう1つ奥にある胸像が「小楠公像 再建者」の像で、再建の経緯などの説明がある。写真は割愛。

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本丸高櫓郭の東側 (奈良側) に2つ石垣があると先ほどのマップに載っていたので散策してみる。高櫓郭を南側 (野崎側) に降りて、東側に回りこむように進むと、整備された道沿いに石垣を発見。丁寧に「飯盛城石垣跡」という看板まで建っている。ここが一番の見どころのようだ。確かに、かなり長大な石垣だ。

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石垣アップ。10m以上に渡って長く、石垣の壁が続く。こちら (奈良側) から攻めてくる敵を威圧し、また土塁 (郭) が崩れないよう積み上げたものか。

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更に奥へ進むと、雰囲気の異なる別の石垣が出現。先程は丸い石をそのまま積み上げていたが、こちらは割った石を平面を揃えて積み上げている。飯盛山城は信長により落城されているので、その時代にこういう打込ハギ風の石垣があったというのは興味深い。後年のモノだったらガッカリ。

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打込ハギ風の石垣の奥には、石段的な残骸が残る。当時はこの上に櫓などがあったか。

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高櫓郭の南側は開発されていて、NHKや在阪FM局の送信所が建つ。野崎側からは車でも上がって来れるようだ。

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送信所の奥は「本丸 千畳敷郭」となっており、かなり広い削平地が続く。

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千畳敷郭の南側にはマップに虎口があると記載されていたが、どうやらこのあたりが虎口のようだ (写真右端に小さく「虎口」と書かれた札がある)。今は石段がまっすぐ造られているが、以前はこの小さな郭を利用して食い違い虎口的な構造になっていたのかもしれない。

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飯盛山城の遺構はここまでで、この先は野崎観音まで山道ハイキングコースが続く。途中分岐があり複数のルートがあるようだが、竹林コースをたどるとこんな感じ。小川が流れ、ミニ水車が回っているなど、涼しげで癒しの空間だった。

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野崎側へ下山。山麓には野崎観音があり、吊り橋を渡ると展望台を経て本堂裏手に出る。この寺は平城京の頃に建立されたが、戦国時代に戦火で焼失。江戸時代に再建されたという。女性を守る仏様として人気だが、それ以外にも石造九重塔や十六羅漢像など見どころが多い。寺紋は「立ち葵」。

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野崎観音 竜宮門。二層目は普通の楼門だが、一層目が漆喰で塗り固められた袴腰 (はかまごし。楼の下層の末広がりになった部分のこと) になっている形状のものを「竜宮門」という。竜宮門の向こうは階段になっていた。

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こちらが野崎観音 山門。脇戸も左右についていて、鯱もあり、かなり立派な薬医門だ。瓦の紋も立ち葵だった。

三好長慶の居城として歴史的にも名高い「飯盛山城」。遺構的にも郭や石垣が多く残り、見どころも多数、大阪を代表する中世山城跡の1つだろう。必見!

訪問時期:2013年11月
撮影機器:SONY NEX-C3
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