御着城 [1/2] 黒田官兵衛の当初の主君 小寺政職の居城

御着城は黒田官兵衛(黒田孝高)が当初仕えていた小寺氏の居城で、物見矢倉や城門などを備えた中世城郭だった。当時は同じく中世城郭だった姫路城よりも大規模な城であったという。秀吉の播磨侵攻により1579年に落城・城割された。遺構はわずかに土塁などの跡が見られる程度でほぼ残っていないが、跡地には天守の形を模した市出張所兼公民館が建てられ、近隣住民の憩いの場となっている。その他、最近建てられた官兵衛顕彰碑や官兵衛祖父 黒田重隆 廟所、少し離れた場所に城主小寺氏を祀る小寺大明神や城跡碑などがある。

<基本データ>
●名称: 御着城 (Wikipedia) (別名 天川城 茶臼山城)
●所在: 兵庫県姫路市 (マップ)
●築城: 1519年 (永正16年)
●築主: 小寺政隆
●遺構: 堀跡、土塁
●関連: NHK軍師官兵衛ゆかりの地


<訪問記>

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御着城址はJR御着駅から徒歩10分ほどのところにある。以前は知る人ぞ知る場所だったが、H25の官兵衛ブームで、駅から主要なルート沿いにこういった分かりやすい看板が設置された。(H25.5確認)

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御着城址 石碑。御着城址には分かりやすい遺構は残っていないので、ここが一番の写真スポットかもしれない。

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H25年に新設された、立派な 御着城跡 案内図。過去の堀跡とは関係なく街が形成されたため、ほとんど遺構は残っていない(わずかに道と堀跡が重なる場所に当時の土塁かも?と思わせる盛り上がりが確認できる程度)。昭和末期にグラウンド部分が発掘調査され、14〜16世紀の堀跡や建物跡などが出てきている。

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御着城跡 説明板。官兵衛ブームの前に立てられた看板のため、黒田家に関する説明は一切出てこない。

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伝 本丸跡は市役所の出張所になっている。城郭風? 矢倉風? の変わった建物だ。

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(2013年6月撮影)2014年のNHK大河ドラマに黒田官兵衛が決定しているため、盛り上がりを期待したノボリが多数設置されていた。

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H21に建てられた、黒田官兵衛 顕彰碑。

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黒田官兵衛と御着城との関係が記されている。官兵衛は近江国(現 滋賀県長浜市)の出身と書かれているが、近年の研究では現 兵庫県西脇市 出身という説もある。御着納所(ごちゃくなっしょ)は、現代の税務署のような場所だったとか。奥に黒田家廟所があるようなのでお参りしよう。

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顕彰碑のすぐ奥にある、こちらの立派な門の奥が黒田家廟所。冠木には黒田家の家紋である藤巴(ふじどもえ)の紋がついている。

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黒田家廟所へ。ここには官兵衛の祖父である黒田重隆と、官兵衛の母である明石氏の2人が祀ってある。官兵衛が居た頃からずっとここに廟所があったわけではなく、元々は隣の佐土村(現 別所町佐土)にあった心光寺に葬られていたが、1587年に官兵衛が佐土心光寺から御着本陣・天川久兵衛という者の屋敷内(”天川廓内”)に移築したとの記録がある。その後、記録は失われ長らく行方不明になっていたようだが、18世紀末に心光寺住職が天川屋敷内から骨壷等を掘り当て、19世紀頭(1802年)になってここに造営・祀られたとのことだ。

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黒田家廟所 説明板。廟所の資材(材木、石材)は遥か九州から運んできて造られたという。ちなみに、説明板中にある官兵衛の父 職隆の墓地についても、同様な過程を経て同じ時期に廟所が造営されたとのことだ。

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市出張所の北側には堀跡とされる場所と、かつて外堀だった天川に架かっていた天川橋(1828年建立の石造太鼓橋。昭和47年洪水にて破損後に移築)がある。

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天川橋に関する説明板もある。約200年前の石橋とのこと。橋の下の凹んだところは御着城の濠跡、と書いている。

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国道を南に渡った先も御着城址で、小公園がある。「小寺大明神」が祀られていることから、その看板があがっているが、城趾の石碑などもある。

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公園内は以前は遊具等が置いてある児童公園だったが、いまは官兵衛ブームで観光コースとなっていることから、説明ボランティアの休憩テントなどが設置されているようだ。

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公園はいってすぐにある、城址碑と歌碑。御着城の別名 天川城趾が刻まれている。昭和41年建立となっている。当時は地元では御着城という呼び方ではなく天川城だったのだろうか。

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歌碑の裏側に、城の由来が刻まれていた。こちらは天川城ではなく「御着城は〜」で始まる。茶臼山城とも呼ぶとも書いてある。石碑には「小寺政職の精兵は秀吉軍勢を一時辰巳の谷に退陣させ奮戦したが」とある。しかし多勢に無勢、「衆寡敵せず遂に天正六年七月落城した」。また政職の子についても記載があり、「城域御着を流れる天川の辺に住んだのでその名をとって小寺の姓を改め天川久兵衛と名乗った」そうだ。その後、龍野藩主 脇坂家から養子を迎え、現在に至る、とある。つまり御着城主 小寺氏の家系は城が落ちた後も脈々とこの地で続いているということになる。

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天川城趾碑の裏側。こちらも昭和41年建立、小寺城主末裔天川洋介の代に建立、とある。すごい。

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公園の奥へ。小さなブロック塀に囲まれた場所に五輪塔が安置されている。説明板によると、城跡に御国野(みくにの)小学校の工事で出土した五輪塔および石佛で、秀吉との合戦で戦死した兵士の菩提を弔うために建立されたものではないか、とのこと。

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その奥に、御着城主 小寺氏を祀った「小寺大明神」がある。

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小寺大明神 説明板。1755年に記された古絵図に「小寺殿社アリ」と書かれていることから、その頃から続くもののようだ。

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そして公園の入口には、これもかなり古い(といっても昭和中期ぐらい?)「小寺大明神」の案内看板と、手書きの古い史跡案内図があった。官兵衛ブームとは関係なく、昔からこのあたりは御着城跡を中心とした史跡コースだったようだ。

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御着附近史跡要図。説明板の名前からして古い。赤数字は観光順序か。この後、御着城とは直接関係がないかもしれないが、この図を元に幾つかの史跡を回ってみよう。(御着公会堂→5.延命寺→15.国分寺)

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旧山陽道(西国街道)沿いにある、御着公会堂へ。先ほどの手書き案内地図には場所のみの記載で番号が振られてはいなかったが、ここは御着の本陣跡だ。

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御着宿 本陣跡 説明板。2100坪、畳の部屋が26もある大きな本陣があったようだ。本陣は大名が参勤交代等で街道を通る際に泊まる特別な宿のこと。

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そして旧山陽道を少し東に進み、延命寺へ。右側に石碑が建っている。

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ここは、明治天皇が全国巡幸された際の御休憩場所とのこと。全国にはこのように、明治天皇の行幸に際し御在所として増設された屋敷跡(長浜城近くの慶雲館など)が多く残る。

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文部省による説明板もたっていたが、昭和10年の木製ということもあり、ほとんど消えてしまっていて非常に読みづらい。明治18年山陽道御巡幸の際にここが小休所となったようだ。

続いて、御着城から少し離れてはいるが(徒歩10分ほど)、少し西にある牛堂山国分寺を尋ねる。ここはその昔 聖武天皇が全国に建立させた国分寺のうちの1つ「播磨国分寺」の跡で、三木合戦の際に黒田官兵衛がここ国分寺に兵を駐留させ三木勢と戦ったという歴史もある場所だ。

>> 御着城 [2/2] へ続く。<<

訪問時期:2013年6月(城址公園,廟所)、2014年5月(小寺大明神,山陽道沿い)

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