御着城 [後編] 官兵衛の駐留が伝わる旧播磨国分寺跡へ

御着城 [前編]御着城 - 播磨国分寺跡 の続きです。

城址公園、黒田家廟所、小寺大明神という”御着城3点セット”を訪問後、近くの旧山陽道沿いに残る江戸〜明治期の史跡を見て回る。その後、官兵衛も一時兵を駐屯したことがあるといわれる 旧播磨国分寺跡を尋ねてみることに。


<訪問記>

kokubunji-2332史跡 播磨国分寺跡 入口。国道2号線沿いにある(Googleマップで見る)。史跡看板は消えかかっているが、国分寺跡に建てられた牛堂山国分寺の石碑はしっかり建つ。ちなみに両者は別物。

kokubunji-2333入口のところからまっすぐ南へ進むと、牛堂山国分寺(現 国分寺)の山門へ。左右に土塀のある立派な山門だ。江戸時代建立。(この山門が江戸時代のものかは不明)

kokubunji-2334山門。鬼瓦が結構変わっている。

kokubunji-2335山門をくぐると、参道沿いにはお地蔵がずらりと並ぶ。

kokubunji-2336中門。ここまでが牛堂山国分寺で、この先を含め現国分寺の境内全体が「播磨国分寺跡」のようだ。

kokubunji-2337中門を出たところには「播磨国 牛堂山国分寺」の石碑が建つ。ここから中は現国分寺ですよということだ。築地塀(ついじべい、泥土を突き固めた塀)がぐるりと囲む。

kokubunji-2338中門を外側から。この門の上にもかなり変わった鬼瓦が乗っている。

kokubunji-2338a-2344そして中門の正面、広い敷地が広がる場所が、史蹟 播磨国分寺跡として発掘・復元等が行われている場所となる。本来の播磨国分寺はこの辺り一帯すべて(現国分寺境内含む) だったようだ。

kokubunji-2338b-2345発掘調査に基づく伽藍配置図を記載した説明板。今から1300年前、西暦741年に七重塔を含むこれだけの建物が建てられていたというのだから驚きだ。

kokubunji-2338c-2347敷地の東南端にあった大きな土台は「塔の跡」とのこと。手前に埋められた説明板によると、発掘調査で出てきた礎石や盛土から、高さ60mの七重塔が建っていたと想定されるとのこと。

kokubunji-2343そして中央部には回廊型の大きな土台が復元されている。丸い部分は柱の跡。

kokubunji-2348かなり広い。

kokubunji-2349一番南側には、12本の柱から成る大きなスペースがある。前の説明板によると、ここは「中門跡」で、東西16m、南北10mの基壇上に、巨大な八脚門が建っていたとのことだ。

kokubunji-2352中門跡を横から。恐らく回廊に繋がっていたのだろう。

kokubunji-2353中門跡から北を見る。瓦片が敷き詰められた道の先に、灯籠がある。

kokubunji-2356瓦片の土台と灯籠。説明板によると発掘調査で直径2.4mの瓦積みの基壇が見つかり、さらに燈籠棹部を抜き取ったような跡もあったことから、これぐらいの太さの燈籠が建っていただろうとのこと。燈籠の復元は東大寺大仏殿前の金銅燈籠を参考に行ったとのこと。

kokubunji-2357a-2339燈籠の先には「金堂」があったとされるが、今は牛堂山国分寺の正門が建っている。ちなみに門は閉まっているが、先ほど通ってきた(現国分寺の)中門の横道から本堂へ向かうことが可能。

kokubunji-2357b-2341牛堂山国分寺 正門。左右両方に脇戸がある、巨大な四脚門だ。ちなみに「四脚門」というが柱の数は6本。これは真ん中の一番太い本柱は数えず、その前後の控柱の数だけで示すため。八脚門も同じ。

kokubunji-2358もう一度 旧国分寺跡を見返す。広い。小学生が走り回っていた。史跡を壊さない限り、運動する場所に持ってこいだ。

kokubunji-2359奥には聖武天皇勅願所と彫られた石碑。聖武天皇は全国に国分寺を造らせたまさにその人。この石碑はまさにその時に…ではなく、横に牛堂山国分寺と銘打ってあるので、早くても江戸時代に造られたもの。

kokubunji-2361さて中門の横道を通って、正門の内側へ。カンヌキでがっちり閉められている。

kokubunji-2362牛堂山国分寺。門は派手だったが、本殿は正統派だ。

kokubunji-2363播磨牛堂山国分寺 説明板が境内に建っていた。中世の戦乱(秀吉の播磨攻めか)で炎上するも、江戸時代になって時の姫路城主 松平忠明公により跡地に現 牛堂山国分寺が建立された、ということだ。

kokubunji-2364牛堂山、の名のとおり、大きな牛の像が奉納されている。

kokubunji-2366奥には石佛が並んだ場所があり、その前には古い國分寺の石碑があった。寛延四年は1751年。

この後、お堂前に佇んでいると住職さんに話し掛けられ、播磨国や小寺氏、赤松氏、そして国分寺の歴史について貴重なお話を伺う機会を得られた。創建当時の播磨国分寺はめちゃくちゃ広く、今で言う御着城跡はおろか、高砂市の鹿島神社あたりまでが「国分寺の境内」だったとか。確かに鹿島神社HPの由来を見てみると、創建は播磨国分寺の東院の鎮護として奉祀とある。確かに時代は奈良時代、このあたりは播磨国といえど何もなかったかもしれないから、土地をふんだんに使って播磨の国の中心となる国分寺を造ったというのもあり得る話かと。楽しいひと時でした。

なお官兵衛の兵の駐留については、現地には特に説明板等なし。姫路駅前などで配布しているパンフには牛堂山国分寺の項に「阿閇城(あえじょう)の戦いの後、毛利の大軍が上月城を囲んだため、秀吉らは救援に赴いたが、その隙に乗じて別所勢が姫路城を陥れようとしたため、官兵衛は急遽姫路に引き返し、国分寺に拠って撃退したと伝えられる」と書いてある。(パンフのPDF

訪問時期:2014年5月
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