熊本城は秀吉家臣・加藤清正が肥後北半国主となり築城した近世城郭で、加藤氏・細川氏の居城として明治まで存続した。天守など主要建物は西南戦争や陸軍により焼失・撤去されたが、現在も13棟の現存建物および天守等の復元建物が多数存在する。2016年(平成28年)4月の熊本地震により多くの建物・石垣が倒壊し現在も修復中。
本ページは大小天守の修復工事を行なっている2018年に熊本城へ立ち寄った時のレポートです。大部分は立ち入りができず、城の北側、加藤神社近辺が少し開放されており、そこから修理中の大小天守が見えました。
<基本データ>
●名称:熊本城
●所在:熊本県熊本市 (地図)
●城主:加藤清正、細川忠利
●築城:1607年(慶長12年)
●遺構:宇土櫓など13棟、石垣、復元天守・復元櫓・復元城門等多数
●時間:2時間半(15:00〜17:00)
●参考:【公式】熊本城
●情報:日本100名城 No.92、国特別史跡
訪問時期:2018年10月
熊本城2022 訪問記 − 其の一、二、三、四、五。
熊本城2013 訪問記 − 其の一、二。
<訪問記>
2018年当時の熊本城は、2016年の熊本大地震で石垣が崩れたため主要部分が立ち入り禁止、城の北側にあたる一部エリアが開放されていて、そこから堀越しに大天守や戌亥櫓などが見られた。まずは城の北西に位置する護国神社から二の丸を通って加藤神社を目指そう。 護国神社側から二の丸へ入る巨大な門跡へ。住江門跡。こちらも大きく石垣が崩れているが、通行はできた。 住江門跡(すみのえもん)。ここは街道になっており、熊本城が街道を城内に取り込んでいる。この先で街道は小倉へ向かう豊前街道と、大分へ向かう豊後街道の二手に分かれる。 住江門跡の石垣は内側が大きく崩れてしまっていた。 住江門跡の大きく崩れた内側石垣部分。資料によるとこの住江門跡の石垣はすべてお城があった当時からのものとのこと。 住江門跡を越えて二の丸へ。ここは広い公園になっていて、大きな横堀の向こうに天守群が横並びに見える。 二の丸に立つ、大小天守と宇土櫓 説明板。写真に写っている、手前の西出丸石垣の上にある西出丸塀(復元)は地震で倒壊してしまった。 西ノ丸から石垣越しに見る、宇土櫓・小天守・大天守。2018年当時は大小天守は修復工事中だった。 明治になって積み直しがされた西出丸の石垣も、一部大きく崩れているところがあった。 戌亥櫓と、大きく崩落した西出丸石垣。上に乗っていた西出丸塀の一部も崩落して残ったままになっていた。 大小天守の再建 説明板。 説明板がある場所からの、宇土櫓と大小天守。小天守が持ち上げられて修復されている。 二の丸の北端までやってきた。堀越しに戌亥櫓が見える。一部、堀の下へ降りられるようにスロープができていた。 戌亥櫓。ここも飯田丸五階櫓のように櫓台の石垣が大きく崩れ、隅石だけで支えている状態になっていた。 堀の下に降りて、戌亥櫓を見上げる。直線的な破風があるだけの、宇土櫓に似た質実剛健な印象の櫓。 戌亥櫓をズームで。櫓台の石垣が北面(向かって左側)だけでなく、東面(向かって奥)も崩れており、向こう側の空が見えてしまっている。角石垣が如何に櫓を支える上で重要な支点になっているかがよく分かる。 戌亥櫓を角度を変えて。戌亥櫓は2003年に復元されたもの。 戌亥櫓 説明板。隅石だけで櫓を支え、また連続する東に伸びる北面石垣もほとんどが崩落した、とある。 戌亥櫓とその西側の薬研堀。 堀に沿って東へ。説明板にあったように、戌亥櫓の東側(西出丸北面)石垣は全体的に堀側に崩れてしまっていた。。。
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訪問時期:2018年10月
撮影機器:FUJIFILM X-T20 + XF10-24mm