信貴山城 訪問記 其の二。
[前回までの訪問記 概要]
奈良と大阪を隔てる生駒山地にある信貴山城跡。今回は奈良側から登山し、朝護孫子寺を経て信貴山城、古代山城の高安城、そして中世山城の高安城を経て、大阪側へ降りる縦走ルートを歩いてみた。まずは旧ケーブルカー軌道跡を通って中腹の朝護孫子寺へ、そこを抜けて信貴山城跡の雌嶽を散策した。続いて山頂の雄嶽を経て、北側尾根上に広がる広大な屋敷群跡を目指します。
訪問時期:2021年12月
信貴山城 訪問記 − 其の一、二、三、四。
<訪問記>
山頂の空鉢堂に続く石鳥居の参道から少し離れて、案内板に指す城跡方面へ向かう。 雌嶽の登り口にあった説明板の図面を再掲。今いるのは赤字の「現在地」の右側(北側)、雄嶽の上下(東西)に長い主郭部。上から順に三段の曲輪から構成されている、一番下(東側)の曲輪にあたる場所。 主郭の三段構成の曲輪のうち、一番東側。広く削平されているが、下から上まで車が通れるように広い道になっていることもあり、城のあった頃の姿のままではないかもしれない。 東側に見える奈良盆地の眺望。左側に見える山には椿井城跡がある。 振り返って二段目の曲輪を見る。車が上がれるように広い車道が貫いている。 二段目の曲輪には城跡碑と説明板が建っている。この三段の曲輪は空鉢堂とその参道などがあり、城跡を思わせるものはほとんど残っていないため、この城跡碑が無いと一般の参詣者はまったくここが城跡だとは思わないだろう。訪問時も石碑の前で「ここお城?」という子供の声が聞こえてきていた(城跡あるある)。 城跡碑の裏側には由緒書が彫られている。平成5年建立。 城跡碑の隣にある信貴山城 説明板。雌嶽のところにあった図面と同じ図だが「石垣」などがプロットされているなど少し詳細になっている。石垣は松永屋敷の隣の尾根の先端部に残る遺構で、後ほど見に行きます。 信貴山頂に祀られる空鉢堂。空鉢護法堂とも。こちらは裏側。 空鉢堂は懸造の舞台状になっていて、奈良盆地を一望できる。 山頂部分は空鉢堂を中心にきれいに削平されている。お堂から離れた場所には石もゴロゴロしていた。斜面はかなり急で、削平とともに切岸化されたのかも。 山頂部の様子。一段低い、帯曲輪のような場所も。 山頂部から北側の「松永屋敷」方面に向かって道がつくられているので、それに沿って降りていく。この道は車が通れるように舗装されているため当時のルートとは異なるか。その道の折曲りのところに、こういった急切岸で守られた曲輪が散見される。 つづら折れの車道を降りていくと、道の下に広い削平地が見えてきた。立入屋敷(たてりやしき)と呼ばれる曲輪だ。直接は降りられないので、もう少し降りてから横から入る。 こちらが車道から立入屋敷へ入る入口。立入屋敷を抜けて奥へ進むと、大阪側の高安山へ向かう山道となるため、高安山方面の案内板も設置されていた。 立入屋敷跡。広い削平地だが、植林がすごくて、全体が見渡せない。 立入屋敷 説明板。雄嶽直下に位置するこの曲輪は南側(図の左)の雄嶽と、北側(図の右)の屋敷群とを結ぶ要の地で、中井家所蔵「和州平群郡信貴山城跡之図」に「立入殿屋敷」と記されていることから、立入屋敷と呼ばれる。立入殿とは松永氏の政治の実務を担った家臣団である「信貴在城衆」の一人・立入氏とのこと。 立入屋敷 全景。非常に広くてキレイに削平されている。植林が全体的になされているのが残念だが、植林がなければ草ボウボウで大変なことになっていたかもしれない。 立入屋敷から更に北側下部には、多数の削平地群が広がる。その一番奥に松永屋敷と呼ばれる広大な屋敷地がある。とはいえ立入屋敷もかなり広く、また屋敷群の一番上にあたる。高低差もかなりのもので、直接は行き来できそうにない。 では松永屋敷へと続く曲輪群へ向かってみよう。立入屋敷から直接は行けなかったので、一旦車道に戻って降りていく。入口がある。 入口は複数あるようだが、ここは立入屋敷との境目の切岸横に作られた入口。 立入屋敷の切岸を見上げる。これは急だ!!そしてかなりの高低差。 横から見るとこんな感じ。かなりの急角度。 松永屋敷まで続く段々の削平地群は、その周囲を土塁で囲まれている。ここも薄いが土塁が残る。 一段下を見る。こちらも土塁が設けられている。一番奥の松永屋敷まで、このような土塁を持つ段々の曲輪群がずっと続く。
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訪問時期:2021年12月
撮影機器:FUJIFILM X-T20 + XF10-24mm