楽々前城(ささのくまじょう)は兵庫県北部、豊岡市の南部に位置する標高300mの山上に築かれた中世山城。日本海へと注ぐ円山川の支流・稲葉川沿いにあり、但馬守護・山名氏の重臣「山名四天王」の一角で守護代も務めた垣屋氏の居城と伝わる。南北朝期から長年に渡って運用されてきたが、秀吉の但馬侵攻の際に落城している模様。城は山頂部の主郭を中心に多数の帯曲輪を配置し、北に伸びる尾根上の曲輪群を多数の堀切で分断、平野側にあたる西側斜面には大掛かりな畝状竪堀群が特徴的に築かれている。登り口は特になく、北側斜面から取り付いて尾根まで直登した。遺構がよく残る城跡だが説明板や城跡碑等が無いのが残念。
<基本データ>
●名称:楽々前城 (ささのくまじょう)
●所在:兵庫県豊岡市日高町佐田 (地図)
●城主:垣屋氏
●築城:南北朝期〜戦国期
●遺構:畝状竪堀群、堀切、土塁、石積
●時間:2時間半(9:30-12:00)
●参考:戎光祥出版「近畿の城郭V」
訪問時期:2021年12月 / 2017年7月
楽々前城 訪問記 − 其の一、二。
<訪問記>
楽々前城は標高307m、比高250mの山上に位置する。特に登山ルートは無いようで、北側の細い道路沿いにあるここから斜面にアクセスした。この右側に貯水池がある。 こんな感じの斜面をしばらく直登する。なお少し左の方を意識して登ると、比較的早くに北城と呼ばれる出城に到着するが、今回は右の方へあがってしまい、尾根まで直登してしまった。 地図を見ながら休み休みに斜面を直登すること約25分。やっと尾根に到着。真っ直ぐ進むと北城(出城)を経て下山できる。帰りはそちらから帰ろう。右へ進む。 しばらくは尾根道に沿って、自然地形のような道が続く。正面に土塁のような場所が見えてきた。このあたりから城跡だろうか。ここ楽々前城は南北朝期から城があったようで、このあたりの低段差・浅い堀切などが続くエリアが南北朝期の名残とされている。 最初に現れる、両側に竪堀を配した土橋のような場所。奥にも低い段差がいくつか続く。 先の土橋を反対側から。 尾根を分断する最初の堀切。現地に縄張図や説明板がないので、準備して来ないと何処にいるのか分からなくなる。 堀切を上から見下ろす。このあたりから遺構が大きくかつ明瞭になり、戦国期に対織田で垣屋氏が強化した遺構か。 この先に巨大な畝状竪堀群が現れる。その入口の、土橋と竪堀。土橋が細い! 土橋の先から見返す。右側が土橋。奥の曲輪との間を巨大な空掘が分断している。細い土橋を通らないとコチラには来れない。 堀切は深く、その先の切岸はかなりの急斜面かつ高さ。これは厳しい! そしてその西側斜面には、巨大な竪堀が何重にも築かれている。楽々前城の最大の見所である、巨大な畝状竪堀群。 畝状竪堀群が築かれている上部は、これまた急斜面かつ高い切岸が構築されている。 切岸と畝状竪堀群の間にはちょっとした曲輪が築かれていて、その周囲も土塁で囲んでいる。厳重!竪堀をあがってくる敵兵に対して、ここと、先の急切岸の上部から集中攻撃する仕組み。 土塁の上からは、先の土橋もしっかり見える。土橋を通らないと直接向こう側からこちらにやってくるのは不可能。土橋は細く、狙われ放題。 そして西側には、巨大な畝状竪堀群が!これは大きい!そして急斜面。 幅7−8mはありそうな巨大な竪堀が西側斜面一体に無数に張り巡らされている。竪堀と竪堀の間のウネの大きいこと! 奥に進むと、竪堀だらけ。 7−8本の竪堀が西側一帯にぐるっと築かれていた。北側の尾根沿いではなく、西側から直接ここへ上がってくる敵兵をかなり警戒していたことがよく分かる。 そして竪堀群から見上げた切岸方面。かなり急角度かつ高度差があり、ココを直登するのも厳しいし、上からガンガン攻撃されるととても上がれそうにない。絶望的な構造。 では先の土塁があった曲輪から、切岸の上へあがってみよう。切岸の斜面を東側へ回り込むように道がある。 あがりきった尾根の上は土塁で三方を囲んだ虎口のような構造。写真では分かりづらいが、正面・右側(竪堀群のある西側)そして手前の三方が土塁。 そして先の切岸の頂上から、畝状竪堀群があった下部を見下ろす。木々が生えてしまって今は見えないが、かなりの急角度かつ高低差があり、ここから直接あがってこられることはないと現場で確信。いやあスゴい遺構だ!前半のハイライト。
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訪問時期:2021年12月
撮影機器:FUJIFILM X-T20 + XF10-24mm