紀州亀山城は、和歌山県中部を流れる日高川の河口部に広がる日高平野にある独立丘陵 亀山に築かれていた中世山城で、日高川西側を中心に勢力を持っていた国人領主・湯川氏(湯河氏)の居城だった。日高川の東側に本拠・手取城を構える玉置氏と姻戚関係を結んでいたが、秀吉による紀州侵攻時に秀吉方に付くか抗戦かで国人衆が割れ、湯川氏は手取城を攻め落城させたが、秀吉襲来時には亀山城を捨て山に入りゲリラ戦術を持って長期間抵抗を続けたと伝わる。亀山城は山頂を中心に円を描くように幾つもの削平地からなり、土塁や櫓台と思われる高まりがあるが、堀切や竪堀などの防御が無い独特の構造をしている。現在は史跡公園として整備されている。
<基本データ>
●名称:亀山城 (丸山城)
●所在:和歌山県御坊市湯川町丸山 (地図)
●城主:湯川直春
●築城:14世紀頃?
●遺構:土塁、曲輪
●時間:1時間 (15:30-16:30)
●参考:戎光祥出版「戦国和歌山の群雄と城館」、戎光祥出版「近畿の城郭II」
<訪問記>
亀山城は公園化されていて、山頂の城跡までハイキングコース(舗装されているが)が整備されている。その道すがら、丸山中央集会所(写真右奥に写っている建物)の前に史跡碑が建っているので見ていこう。 史跡 亀山城址 登山口碑。碑ぎりぎりに柵が作られていてとても見づらい。丸山中央集会所の場所はココ。 史跡碑から奥に進んでいくと、亀山城址への案内板が出てくるのでそれに沿って進もう。山に向かって上がっていく感じ。 正面に見える小山が亀山城跡。日高平野の中央部に位置する独立丘だ。 登城路の途中には鎮魂碑があった。詳細不明だが、左右には丸に割菱の家紋。亀山城主・湯川氏の紋も丸に割菱だそう。 斜面に沿って整備された登山道をえっちら上がっていく。斜面を見ると段々畑で果樹園になっている。ちなみに当時の大手道(登城ルート)は古文書によると南側にあったそうだが、現在は失われているとか。 随所にある案内板を見ながらどんどん山を登っていく。急角度で一気にあがるので、比高100mほどといえども結構疲れる。 つづら折れになりながら、どんどん山を登っていく。 このあたりは当時は曲輪だったのだろうか、削平地らしきエリアをハイキング道が縦断している。 ここからは城内の曲輪跡と思われる削平地を通っていく。亀山城は山頂に主郭部を配置し、その周囲に円を描くように帯曲輪を斜面上に幾つも配置した、同心円状の城郭になっている。ここは主郭の一段下の帯曲輪にあたるようだ。 奥にスロープ状の坂道があり、ここを上がると山頂の主郭部へ到達する。 山頂へ上がってきた。史跡めぐりハイキングコース 亀山城址の案内板があった。主郭部は広く、中央部に土塁があり2つの区画に分かれている。説明板もあちこちに分散して建っているので見逃さないように散策しよう。 主郭部を隔てる土塁。奥のほうが高いので、向こうが主郭、こちらが二の曲輪と言われる。 亀山城跡 説明板。南北朝から戦国時代にかけて、有田郡・日高郡・牟礼郡という紀伊国中央部をほぼ抑えていたという湯川一族。十二代当主・湯川直春の時に秀吉の紀州攻めが起こる。雑賀・根来衆が和泉で敗れ、秀吉軍が紀南へ迫ると、紀南の国人領主たちは恭順派と抗戦派に二分した。湯川氏は抗戦の道を選び、亀山城を捨てて熊野山中に逃れゲリラ戦を展開。秀吉方は苦戦し、本領安堵の上和睦となった。 主郭部にあった僧侶の像。 主郭部の周囲には土塁が築かれており、今もキレイに残っている。土塁を見に行く前に、奥の休憩所にある亀山城の想像図を見に行こう。 亀山城主郭に設置されていた、亀山城跡復元想定図。山頂の主郭部を中心に同心円状に帯曲輪・腰曲輪を配置しているが、一般的な山城にある堀切や竪堀などは見られない。右下には隣の頂部に出丸が築かれている(今回未訪。こちらには堀切跡も残るとか)。構造から見るに、防御の城というよりも威厳を城下に示すための城のように見える。 では主郭部外周に残る土塁を見てみよう。土塁の下は急角度の切岸になっていて、直接ここから登ってくるのは厳しそうな角度。 土塁の端っこまで行くとベンチがあり眺望を楽しめるようになっていた。 土塁の端っこまで来た。見張台的なものが建っていたかも知れない立地。 御坊の町が広がる日高平野と日高川を一望。太平洋もしっかり見渡せる。
>> 亀山城 [2/2] へ続く。<<
訪問時期:2017年2月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF14mm