手取城は、和歌山県の中央部を流れる日高川の中流あたりの山上に築かれた巨大山城で、戦国時代まで当地で勢力を持っていた国人領主・玉置氏の居城である。かつては総石垣だったのだろうか、今は崩れている所も多いが主要部に石積跡が散見され、城域を区切るように尾根筋を複数の堀切が施されている。発掘調査では菊紋を持つ瓦や礎石なども見つかっており、当時は瓦葺きの立派な建物が建ち並んでいたようだ。城内は整備され車道も東の丸まで続いているがかなり狭くなるため、車は登城口からしばらく進んだ右手側にある駐車場に停めて歩いて上がろう。
<基本データ>
●名称:手取城 (てどりじょう)
●所在:和歌山県日高郡日高川町和佐 (地図)
●城主:玉置氏
●築城:14-16世紀頃?
●遺構:石垣、土塁、堀切、竪堀、土橋
●時間:1時間半 (13:30-15:00)
●参考:戎光祥出版「戦国和歌山の群雄と城館」、戎光祥出版「近畿の城郭I」
訪問時期:2017年2月
手取城 訪問記 − 其の一、二、三。
<訪問記>
手取城への登城口。まだ少し車であがれるよう道も舗装されているが、説明板などはここにある。 登城口にある手取城址 説明板。和歌山中部の日高川沿いを領した国人領主・玉置氏の本城。日高川の西側を領していた湯川氏とは親戚関係でもあったが、秀吉の紀州攻めの際に臣従か抗戦かで決裂。手取城は湯河氏に攻められ落城したという。秀吉方についた玉置氏はその後も秀長配下として手取城主となっており、現在残る遺構はその頃に改修されたものと考えられている。 登城口にある手取城址行道図。登城口からまっすぐあがっていくと中腹に池があり、その脇に駐車場がある。その先も城跡まで道が続いているが道幅は2mも無い細さですれ違う退避所も無いため、池横の駐車場から歩いて上がるのが良いと思う。 掲載されている手取城址見取図。かなりモデル化されているが、本丸(主郭)の手前に堀切で分断されながら複数の郭が構築された、典型的な山城の様相をしている。今回は図の下に書いてある車道を通って城内へ入り、西の丸下から斜面をあがって西の丸へ入り、二の丸、本丸、描いてない本丸北側の連続堀切を見てから、東の丸を見るルートで見学する。車道をまっすぐ進むと東の丸へ到達する。 では駐車場に車を止めて城内へ向かおう。道はこんな感じ。見学者は駐車場まで、その先は整備用の軽トラ専用と考えたほうが良さそうだ。 駐車場から少し進むと、古城行道という石碑が建っていた。ここに大きな堀切が施されており、ここからが城域と考えるのが良さそうだ。この道は谷から城内まで通っているが西の曲輪群をスルーして東の丸へ直結することから恐らく当時の道ではないだろう。 古城行道の石碑の奥にある、城の西側を守る大堀切。太い杉の木が3本ぐらい生えるほどの幅がある。当時の登城ルートは判明していないようで、城のある山の南側には日高川の支流が流れる別所谷があるので、その南側から谷筋を登山して西の丸か東の丸にたどり着くルートだったのだろうか。 しばらく進むと城側が大きな窪みになり、笹が大量に生えている「溜池」と書かれた場所へ。この奥が二の丸・本丸の主要部、手前が西の丸にあたり、溜池の上部は堀切になっていて両者を分断している。写っていないがこの溜池の奥に二の丸の下段(先の図で言う腰曲輪)へあがるルートがあったので、そこから城内へ入る。 二の丸下段の腰曲輪。右上に見えている上段が二の丸。城内は全域に渡って桜が植樹されており、春は桜の名所として多くの登山客が上がってくるようだ。 しばらく進むと二の丸側から西の丸側へ渡る土橋と、堀切が現れる。この堀切の下は先程とおった溜池だ。 二の丸と西の丸を分断する堀切。こちらもなかなかの幅広。一面笹薮だがキレイに刈ってあった。 反対側の、溜池へ通じる方の堀切。竪堀になる。 土橋を渡ると西の丸へ。細長く削平され、奥には土塁や見張台など、日高川の流れる西側からの侵入を防ぐ設備が施されているようだ。 西の丸の北側に築かれている巨大な土塁。 西の丸から、二の丸・主郭方面を見る。左上の高くなっているところが主郭か。西の丸は左側に細く伸びる形になっていて、斜面側には桜が植えられた一段低い帯曲輪と、その下(右側)は大きな谷のような地形になっている。このあたりに恐らく崩落防止のためか石積が築かれているようなので探しに行ってみる。 右上の高いところが西の丸。その手前が帯曲輪。その下の谷部分は整備で伐採した木々の捨場になっているようで、谷が全く見えない。このサイドをよく見てみると、石積が築かれているのが見える。 西の丸帯郭の石積跡。 西の丸へ戻る。先の土塁の先へ行くと、西の丸の西側には大土塁が築かれている。 大土塁の上へ。西の丸側の最高地点にあたり、のろし台か櫓台か、西側の見張りのための設備があったと想定されている。 大土塁の上には小さな「のろし台」という案内板があった。玉置氏はここ手取城を中心に、平野部から近隣の山々にかけて複数の支城群を形成しており、ここから狼煙による情報連携があったとしてもおかしくない。 西の丸のろし台からの西側の眺望。木々が生い茂っているがある程度伐採すれば日高川下流の平野部が一望。 西の丸のろし台から、主郭方向を見る。訪問時は2月なので木々は枯れていて主郭部が見えるが、桜に葉が付くと全く見えないだろう。 では西の丸から堀切を越えて主郭部を見に行ってみよう。先程渡ってきた土橋へ戻る。よく見ると西の丸側の入口に石列も見える。
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訪問時期:2017年2月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF14mm