明石城は江戸初期、西国外様大名の抑えの要所として将軍秀忠の命で譜代大名・小笠原忠真(家康の孫)に築かせた総石垣の平山城。南北に伸びる舌状台地の南端を高石垣で固め主要部とし、西の本丸と東の二の丸とを細い土橋で繋いで並列に配置している。史料によると廃城で不要となった高砂城・三木城・船上城などの旧資材を利活用したとある。本丸の四方に建てられていた四櫓のうち南側の2つが現存し、JR明石駅ホームから左右に見える櫓がそれぞれ90度向きが異なっていることが特徴的。西の坤櫓は伏見城から、東の巽櫓は船上城の遺構と伝わる。天守台は築かれたが天守はあげられず、坤櫓が天守代用とされた。築城時、宮本武蔵が客分として小笠原家に滞在しており、町割りや作庭の指導を行ったと記録されている。
<基本データ>
●名称:明石城 (Wikipedia)
●所在:兵庫県明石市 (地図)
●城主:小笠原忠真
●築城:元和四年(1618)
●遺構:巽櫓・坤櫓、石垣、天守台
●時間:2時間30分 (1100−1330)
●情報:日本百名城 No.58 (一覧)
訪問時期:2019年12月 / 2020年6月
明石城 訪問記 − 其の一、二、三、四、五。
2013年7月の訪問記はコチラ。伐採前なのでボウボウです。
<訪問記>
明石城はJR明石駅のまさに正面。駅ビルを出ると目の前にお堀(中掘)と石垣が広がる。訪問時は2019年、築城400周年記念で大規模な修理や草木の伐採が行われた。この訪問記はコロナ緊急事態宣言後の2020年6月末の写真をメインに、一部2019年12月末の撮影分を交えてお届けします。 「太鼓門」と呼ばれる大手桝形虎口へ通じる巨大な土橋から城内へ。真新しい明石城跡碑がお出迎え。古絵図を見るとここは元々は木橋で、正面には「定ノ門」と呼ばれる高麗門と、枡形の出口(右側)には「能ノ門」と呼ばれる櫓門があり、能ノ門には時を告げる大太鼓が設置されていたとか。 土橋を渡った先の左右の石垣は黄色く変色している。 反対側も。よく見ると石垣の積み方も怪しいし高さもここだけ低い。 大手の桝形虎口の石材はこのように装飾された石材もあちこちに使われており、見どころ。 太鼓門桝形虎口。この左右の石垣の上に大きな櫓門「能ノ門」が通っていた。 櫓門の内側のお堀側石垣には巨大な雁木(石段)。橋や堀を渡ってくる敵を攻撃できる設備。 大手桝形虎口の内側部。複雑に折れ曲がっている。 枡形を出た後も再び左へ90度曲げられる構造になっている。堅固。 そして城内へ。正面に2つの現存櫓が土塀(これは復元)に繋がれている、これぞ明石城の姿が飛び込んでくる。 右前の尖った物体は日時計。結構正確に時間が分かるので晴れた日は是非。古絵図によると今居る場所には堀で囲まれた屋敷が建っていて、正面石垣のちょうど中央の前あたりに縦に堀があった。今はすべて埋め立てられ面影は無い。 明石城 本丸へは櫓に向かって右か左に回り込んで上へあがる。今回は右から回っていこう。巽櫓がそびえ立っている!右奥上部は二の丸・東の丸。 12月末の写真より。木々が枯れているとまさに石垣と櫓が丸見え。でも400年祭でかなりキレイに伐採整備されたため、夏場でも全く見えないというわけではない。それ以前は、夏場は櫓の前は完全に木々に覆われていた(参考:2013年夏の訪問記)。 では本丸を目指して上がっていこう。緩やかな石段をあがる。正保城絵図を見ると、この石段の正面ぐらいに城門が描かれている。 石段をあがると、道が四つに分かれる。正面石段をあがると一気に二の丸へ。右へ向かうと大きく回り込んで東の丸へ。左へ向かうと櫓の真下を通って本丸西側へ。オススメは左! 左を見る。以前(伐採前)は確かここは通れなかった記憶があるが、今は柵も取り払われ西側へ抜けられるようになっている。 この道を櫓に向かって抜けていく。櫓の乗る高石垣の真下を通ることができる! 途中の石垣にあるハート型あるいは猪目型の石材。下部の矢穴が右側にも左側にもついているところがポイント。 冬場だとさらに木々が少なく、このとおり。 こちらは6月の写真。夏場でも十分石垣を見ることができる。そびえたつ高石垣! □に×の刻印石。角石に使われている。 超広角レンズで撮って強調されているのもあるが、それでもすごい扇の勾配を持つ櫓台石垣。角石をざっと数えると30段ほどある。1995年の阪神淡路大震災ではこの石垣が大きく崩れ、上の巽櫓を曳家で奥にズラして修復した。 巽櫓の石垣と二の丸方面。かなり巨大な城だったことが分かる。 よく見るとあちこちに同じ刻印石がある。赤や黄色っぽい石は、高砂の竜山石(宝殿石)という珍しい凝灰岩だとか。 巽櫓石垣。 多少残っている木々の間から見る、両櫓の間に築かれた高石垣。苔は生えていないが緑が投影されて苔むした感じがする。 石垣に沿って西側、坤櫓の方面へ向かう。途中石垣が少し出っ張って二段になっている場所へ。この上は狭く登り口も特にないので、恐らく本来の高石垣を補強するための石垣だろうか。石垣の手前に小さな石垣を補強のためにくっつける事例は多数ある(高取城、鳥取城など)。 坤櫓へ。補強石垣が完全に櫓台と同じ列まで出てきている。 坤櫓の石垣には丸に十字の刻印があった。明石城は幕府による町人普請で築かれており、これら刻印はその町人たちの符号ではないかとされている。
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訪問時期:2019年12月 / 2020年6月
撮影機器:FUJIFILM X-T20 + XF10-24mm