お船江(おふなえ)は江戸時代に築造された対馬藩の御用船を係留した船溜まり跡で、当時の石垣造りの港湾の様子がそのまま残る、全国でも稀に見る貴重な遺構となっている。金石城の南東部に位置し、博多湾側に向かって港が構築されていた。関連する史跡として、対馬島の東西を渡る3つのルート(江戸期に掘削された大船越瀬戸、陸路で船を渡した西漕手・万関瀬戸)のうち、後者2つも訪ねてあわせて紹介します。
●名称:お船江跡
●所在:長崎県対馬市 (地図)
●城主:宋氏
●築城:寛文三年 (1663)
●遺構:築堤、船渠、石垣
●時間:30分
訪問時期:2019年1月
関係する訪問記 − 金石城 その一 その二。
<訪問記>
まずは位置関係。対馬島の北島と南島の境目あたり、リアス式海岸になっているあたりに3箇所のすごく細い陸地の部分があり、そこが古来東西行き来の要所となっていた。また南島の中央あたりに位置する対馬藩庁・金石城のやや南に、御用船を係留するお船江があった。今回は赤いピンの場所をめぐる。金石城の訪問記はコチラ。 対馬藩お船江跡 説明板。朝鮮・中国との貿易の窓口だった対馬藩・宋氏にとって、港は最重要拠点であり、また巨大な船溜まり建造や後述の大船越瀬戸の掘削などを実行できるほど財政が豊かだったとも考えられる。 お船江の湾を遮るように築かれた石垣の壁。当時はこの上に土塀あるいは多門櫓が築かれ、外から湾の様子が全く見えないようになっていたことだろう。見切れているが右側に石垣の切れ目があり、そこから中に入る事ができる。 お船江へ。細長い湾の向こうに、石垣で出来た突堤と、船を格納するドック(船渠)群。これはすごい。残念ながら向こう側には行けず、対岸から眺めるのみ。まずは超広角レンズで全景を。 突堤は4つ築かれていて、その左右に石垣の大きな壁(湾の外側から見えない)が築かれている。ああ、向こうに行ってみたい! 今はドックの対岸に居る。対岸側はこれぐらいの狭さの通路が設けられているのみ。右奥は東側、日本海へ。 人工的な入り江を築き、石垣で周囲を固め、同じく石垣の突堤を4つ建造している。 海と繋がっているとはいえ、とても静かな湾内。 ちょっと高い位置から見る。突堤の高さはそれぞれ違っているのも見どころ。 ちょっとズームで。ドックの向こう側は森になっている。船は土地の持ち主のものだろうか。向こう側に行きたかった〜 お船江 全景を魚眼レンズにて。広い。とても静か。 魚眼レンズでも写りきらない手前の石垣を収めたくて、パノラマモードで撮ってみた。こんな感じです。右側と左側の石垣は繋がってます。270度ぐらいの構図。 続いて金石城の北側、対馬島の一番細くなっている地狭部へ。100mほどしかなくて、かつては小舟を陸送して島を越えていたとか。こちらは地狭部の西側(朝鮮半島側)、西漕手と書いて「にしのこいで」と呼ばれる場所。漕出と書かれているサイトも多いが、漕手が正しい模様。 この細い道を西へ進む。上の説明板は写真の右奥に写っているもの。 奥へ進むといきなり海辺に出た。リアス式海岸のかなり奥の方。石垣で補強された道を通って沖へ進むことができる。 恐らくここが船溜まり。左奥のほうが沖、右奥に停めたら外から全く見えない。 道は細い湾の先に向かってずっと続いている。行けるところまで行ってみよう。 対岸の断層露出。隆起して板状の砂岩が斜めに露出している。こういうところが対馬には無数にあり、独特の対馬石垣(勝手に命名)を作り出したのだろう。 どんどん奥へ。ちょっと飛び出たような場所が一番端っこのようだ。あそこがかつての湾の入口? 端っこから西側を見る。まだまだリアス式海岸の迷路が続いていた。隠し港のようだ。 端っこの突端から湾の内側を見返す。あの山の後ろ側まで入り組んで海岸が続く。隠し港の三悪人!と言ったら宗さんに怒られるか またまたパノラマモードで撮影。左側が西側、右側が東側。270度ぐらいの画角。 薄っぺらい板がいっぱい取れそうな断層。対馬独特の板状砂岩だとか。エメラルドグリーンの海に反射して不思議な眺め。 壊れてしまった古い案内板を発見。以前は史跡 船越として登録されていた?よく読むと「西漕手浦(西漕出ともいう)」と書いてある。出でも手でもどちらでもいいのかも知れない。 戦前の石碑も残されていた。對馬要塞第二區地帯標、とある。對馬要塞は明治時代に日露海戦に備えて大日本帝国陸軍が築いた要塞群で、数十箇所の山上に砲台が築かれていたとか。古代山城・金田城に築かれた砲台跡や対馬島北端の豊砲台など、今も無数の遺構が残る。 最後に、明治33年に島の東西を繋ぐ新航路として帝国海軍によって開削された万関瀬戸を見に行こう。今は万関橋という大きな鉄橋が掛かり、南側には説明板などが立つ駐車場も完備されている。 こちらが万関橋。かなり大きな橋。明治時代は幅8mほどだったようだが、その後何度か拡張工事がされ、今は幅40mまでに至る。歩道を歩いて橋の中央あたりまで。 万関瀬戸の西側。明治時代の開削は、ここに海軍が大量の爆弾を仕掛けて豪快に岩盤を爆破していったのだろうか。 万関瀬戸の東側。すぐに日本海が広がる。 説明板より。 瀬戸(海峡)の広がりに応じて、掛けられる橋も変遷してきた。初代の橋は柵も無く、めっちゃ怖そう。。。
訪問時期:2019年1月
撮影機器:FUJIFILM X-T20 + XF10-24mm