
水城(みずき)は博多湾と大宰府を結ぶルート上に築かれた巨大防塁。白村江の戦い(663年)で破れた天智天皇ら当時の日本政権が、唐の反撃に備えて整備した防衛拠点の一つで、太宰府を守るため大野城・基肄城とともに建造された。大野城のある四王寺山と西側の丘陵の間約1.2kmを巨大な土塁と水堀で遮蔽し、東西に城門を設置した。巨大な水堀を備えていたことから水城と呼ばれる。日本書紀にも記載が残り、今も巨大な土塁の一部が明瞭に残る。
<基本データ>
●名称:水城 (Wikipedia)
●所在:福岡県太宰府市・大野城市・春日市 (地図)
●城主:天智天皇
●築城:天智天皇三年(664年)
●遺構:土塁、水堀、城門跡
●時間:15分 (1515−1530)
●情報:続日本百名城 No.182 (一覧)
訪問時期:2019年1月
<訪問記>
大野城へ行く前、ちょっとだけ時間をもらって寄ってみた、東門跡の資料館。資料館は土塁の内部につくられている。当時はこんな感じの巨大防塁が、1.2kmにも渡って築かれていたという。ちなみに今居る土塁の北側(博多湾方向)には、幅60mの堀が作られ、水がたたえられていたという。 土塁の前に建つ巨大な石碑。大正時代に建てられたものだとか。 水城の説明板、と思ったら、さっき見た水城大堤之碑という石碑の説明板だった。100年ほど前、大正時代に建てられた石碑も立派な文化財だ。 こちらは明治に作られた史蹟碑。碑の左側にある穴が空いた石は、この付近にあった水城の城門の礎石だという!すごい。奥の丸い穴が門柱のホゾを刺す穴で、手前の丸い穴が扉の穴だとか。石碑の右側の丸石も門の礎石の一つ。 水城東門跡 説明板。664年に天智天皇らによって造られた水城は、史料によると1183年にはまだ城門が存在していたものの、13世紀後半の元寇の頃には既に廃され礎石のみとなっていたようだ。江戸時代にも先程見た礎石は既に観光名所となっていたらしい。礎石は移動されており、正確な位置は不明だが、向きだけは合わせてある。 土塁の内部に作られている、水城館という資料館へ入ってみよう。続100名城スタンプもこの中にあり。入館無料。 内部は主にパネル展示。まずは周辺地図。①と③をつなぐ緑のラインが水城跡。道路や線路等で分断はされているが、今も多くが残っているという。今回は時間が殆ど無く、ここ東門跡しか見ていないが、いずれ再訪して西門跡、展望台からの全景、水堀跡などなど、じっくり見てみたい。 資料館のパネルその1、水城とは。全長1.2km、幅80m、高さ平均9m!しかもその手前には幅60mの水堀。※パネルは少し加工(図を上に移動)。 資料館のパネルその2、水城の構造。土と砂を交互に入れて付き固めた、版築土塁。大野城や鬼ノ城など他の古代山城でも見られる、非常に硬いがコスト(時間・作業量)が非常に掛かる、大変な工法だ。水城の東西に築かれた城門は、ここ東門は博多湾へ、西門は鴻臚館(こうろかん・当時の迎賓館で現福岡城跡)へと繋がっていたという。 付近の川岸から出土した奈良時代の巨大な鬼瓦。太宰府政庁跡で出土する瓦と同形式とのことで、水城の河川付近に瓦を葺いた往来に関わる建物があったことを示しているとか。右側の土師器には「水城」と墨書きされている。
今回は時間がなく水城跡はここまで。この先の大野城百間石垣へと急いだ。実はこの資料館の上の土塁には登ることが出来、低い角度からだが水城の伸びる巨大土塁を俯瞰することができるそうだ。まだ堀跡も、西門も見ていない。いずれ。
この日は四王寺山一帯の史蹟めぐりということで下記を回っています。セットでどうぞ。
・大宰府政庁跡(飛鳥時代〜平安時代の役所跡)
・水城跡(古代城壁・続百名城)
・大野城跡(古代山城・百名城)
・岩屋城跡(戦国時代の山城)
訪問時期:2019年1月
撮影機器:FUJIFILM X-T20 + XF10-24mm