河後森城 訪問記 其の三。
[前回までの訪問記 概要]
JR松丸駅から旧松丸街道を抜け、風呂ケ谷から登城。西第十曲輪から尾根上に続く連郭を通り、本郭へ。本郭では武家儀礼が行われた主殿舎の床板が復元されていた。眺望を楽しみ、東側の古城・新城部へと向かいます。
訪問時期:2019年7月
河後森城 訪問記 − 其の一、二、三。
<訪問記>
本郭の様子。ここから東側に展開されている連郭を見ていこう。 主殿舎の脇ぐらいから、東曲輪群へ通じる坂道があった。東側の曲輪群から本郭へ入ってくると、すぐ目の前に主殿舎の入口があった。 7月末の訪問だったが、木々は伐採され、草刈りも要所はなされており、暑いながらも心地よく散策が出来た印象。整備おつかれさまです。 東第三曲輪から、本郭および第二曲輪を見返す。ちなみに目の前の東第二曲輪を反対側(写真の奥側)へ抜ける道があり、そこを降りると一気に城跡碑・永昌寺・街道側へと降りられるようだ。今回は通らず。 東第三曲輪をまっすぐ進む。尾根の上が削平されており、古城まですっかりと見える。 東第四曲輪と古城との間は大きな堀切が作られており、発掘調査の結果、このような簡易な門が設置されていたようだ。ここからは直接降りられないので、少し戻って回り込むように右側の城道へ降りる。 東曲輪群と古城の間の大堀切へ。 堀切の構造 説明板。築城当時から城の東西を行き来する道としても使われており、新旧6段階もの城門跡が見つかっているとか。古い段階に比べ新しい段階になると堀切が広められ、それに伴い門の規模も大きくなっている。復元されているのは最終段階のようだ。大型で内開きの棟門が、堀切道に対し角度をつけた形で設置されていた。 だいたいこんな感じの門があったのだろう。扉が無いのでただのアーチのように見えてしまうが、当時は当然厳重な内開きの門扉が付いていた。城門は、有事の開閉のし易さから内開きにするのが基本だ。古い門は坂道の途中にあったので外開きにせざるを得なかったのだろう。 大堀切から東側は、古城と呼ばれるエリア。こちらも発掘調査でいくつかの建物跡が検出されており、平面復元されているようだ。 古城で検出した施設 説明板。古城という名前だが、他の曲輪と年代はそれほど変わらないようだ。曲輪の手前の方に建物が集中しており、見張り台と思われる正方形の井楼跡も。 古城から更に東へも、古城第三曲輪などが展開されているが、古城から直接は行けず、先程の大堀切からぐるっと回り込んで、この眼下の曲輪へと行くようだ。古城東曲輪には行かず。 古城から東曲輪方面を見る。門の屋根しか見えていない。曲輪の周囲には板塀や柵などが巡らされていただろうから、堀切にいる人からは曲輪の中は全く垣間見えなかっただろう。 ではここから少し離れた新城と呼ばれる曲輪を目指そう。ここからは一旦斜面を降りる。 三叉路へ。ここから右下へ更に斜面を降りていくと、最初に来た風呂ケ谷まで降りることができそうだ。真っ直ぐ進むと新城へ。 新城は主要曲輪群からは少し離れた、独立した丘陵の上にあるような印象だ。 こちらが新城。丸い単体の曲輪だ。パンフによると外周に帯曲輪が巡っているとか。 説明板の類はなく(見落としかも)、小学生が作ったパネルのみがあった。門。ここに門跡があった!? 詳細不明。 新城の周囲の帯曲輪が少し木々の間から見える。ここから降りれそうだ。 帯曲輪へ降りると、城下への眺望が開けていた。あの谷を抜けてくる軍勢などがいればここから一望だ。古城からとは異なる監視拠点として新たに築かれたのだろうか。 新城は城内もっとも東側に位置し、谷を挟んで向かい側には西第十曲輪がある。ちょうど木々の切れ間から西第十曲輪と、その奥の最高所にある本郭がよく見えた。向こうからこちらは木々が生い茂っていて明確には見えない。往時は各郭が連なる様がはっきりと見え、壮観だっただろう。 新城の近くから、風呂ケ谷に一気に降りる。当時も、外側は断崖の様相のため、この風呂ケ谷側から全方面的に斜面を駆け上がって来られたのかも知れない。 風呂ケ谷まで降りてきた。では一旦来た道を戻って街道へ。 旧松丸街道沿いを進み、東第三曲輪から城の反対側に降りられるという登城口を目指そう。そこに城跡碑があるという。この「永昌寺登城口」の看板が目印。 永昌寺の案内に沿って左へ行ってしまうと寺へ。城跡碑はまっすぐ進んだ先の車道の手前を左へ。ちなみに奥の車道は先程通った道。 車道の下あたりにある河後森城趾の石碑。かなり大きい!が木々に覆われ、車で行く際の風呂ケ谷駐車場側とは反対に設置されているため、スルーしてしまうことも多そうだ。 石碑の裏に城の由緒などが彫られているが、石碑が非常に大きいのと、木々に囲まれていて日陰側になるので、読みづらい。石碑は平成2年造。以下 石碑文面書き下し。
「河後森城は伊予と土佐の国境にあって鎌倉時代から安土桃山時代にかけ軍事的にも重要な城として河原渕領を支配して栄え、城主は代々渡辺氏を称した。戦国時代には土佐中村の一條房家の甥・東小路教忠を養子に迎え城主とした。教忠卿は宇和西園寺麾下各将のうち最大の領地を有し、九州大友氏、土佐の長宗我部氏の度重なる侵略に対して永禄から天正のはじめにかけて活躍した名君であった。この度の発掘にあたって教忠卿の偉業を偲び、雄大な城の姿を広見川に映して人々の支えとなっていた河後森城が中世の名城として今後の輝きを増していくことを祈って止まない。」なんと石碑の建立は渡辺式部少輔教忠後裔 宇和島市八幡神社宮司 渡部さん!城跡碑から永昌寺へ周り、山門へ。伝・河後森城の移築門だとか(日本城郭大系)。 現地には特に移築門だという説明板や記載等も無かった。山門自体も新しそうだった。瓦や門の内側には「丸に十字」の紋が彫られていた。 河後森城 遠景。広見川に掛かる橋から。冬場に来るともっと削平感が見えるかも知れないが夏場だとこうなる。手前の二つ三角屋根の建物がJR松丸駅。
訪問時期:2019年7月
撮影機器:FUJIFILM X-T20 + XF10-24mm