金海竹島城 [1/3] 洛東江の水上交通を確保する巨大な拠点城。

金海竹島城は、文禄の役において「御仕置の城」として築かれた初期の拠点城の一つ。鍋島直茂が築城・城番を担当した。城は半島内部を流れる大河・洛東江内の要衝に築かれ、対岸の亀浦城とともに洛東江の水上交通を押さえ、半島北西部への侵攻・中継の拠点とされた。慶長の役になると、戦線縮小に伴い対岸の亀浦城は破却されたが金海竹島城は最後まで戦線を維持していた。遺構は一部を除いて開墾等により大きく失われているものの、巨大な城域に残る遺構や地形から想定される往時の姿を現地で感じられた。

<基本データ>
●名称:金海竹島城(きんかいたけしま・きめちゅくど)
●所在:釜山広域市江西区竹林洞 (地図)
●城主:鍋島直茂
●築城:文禄二年(1593)
●遺構:石垣、虎口、堀切?
●時間:2時間30分 (1145−1315)
●情報:倭城

訪問時期:2018年11月
金海竹島城 訪問記 − 其の一

続・倭城めぐりの旅 [2018] – 熊川/泗川/順天/長門浦/東莱/加徳/金海竹島
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<訪問記>

金海竹島城への入口。駐車場と案内板がある。コンクリートの坂道の上に寺があり、その奥に城跡が広がる。
まずは案内板から。例によってハングルと英語。英語がおかしいのはハングルから機械翻訳したためかと思われる。かなり読みにくいが英語版の概訳→「1593年、洛東江の水上交通を押さえつつ朝鮮軍の反撃に対抗するため、鍋島直茂親子が築城。47.5mのオボン山頂に主要部を配置し、小学校の西側に城壁が残る。主要部は東西460m、南北100mあり、曲輪が一直線に連なる連郭式で、全体が二重構造になっていて(帯郭)、外周部はおおよそ1200mほどもある。朝鮮側の1595年2月15日付の史料によると、城は平壌と同規模で、三方を洛東江が囲み、内部は木・土・石で造られ、派手な巨大塔が建ち、その周りに小さな塔が立ち並び、百万以上の兵が駐屯できるほどの規模だった、とある。城は海側から金海地区への入口に立地され、川には船を係留でき、支城として農所倭城(Shindap)と馬沙倭城(Masa)を持つ戦略的な位置付けの城郭だった。」
坂道を上がっていく。石垣がそこかしこに見えるが、コンクリート道は寺の参道になっており、どこまでが当時の遺構かが分からない。道の下の石は違うが、正面の木々の下にちらっと見える部分は遺構?
坂道の上から、洛東江を見下ろす。標高は50mほどとのこと。川は眼下に一望でき、水上交通を抑える地としては最適だ。城は川を東に、西側に伸びるように築かれている。
坂を上がると大きな寺が建っていた(写真なし)。寺の建物の脇から奥山へ。石垣の壁が見えてきた。寺の建物があってこの手前はわからないが、ここが城(遺構)の最東部に当たる。
よく見ると、ここは大きな桝形虎口のようだ。右手前の整形された石は違うが、右側と左側(見切れているが)に石垣があり、正面にも石垣がある。こちらから入って、突き当りを左に曲がるルートだった模様。
何とか桝形虎口っぽい写真を撮ろうとしたが、微妙に木々が生えていて難しい。曲輪の中に枡形が入り込む「内枡形虎口」の構造となっており、枡形の手前にも石列があることから、スロープか階段で上がるような形になっていたのかも知れない。
東の桝形虎口を横から。左端にちらっと写っている建物がお寺。お寺の裏山という感じだ。
桝形虎口の向かって右側には大きな櫓台と思われる石垣が残る。手前にも石垣づくりの一段低い曲輪があったことを物語る櫓台に垂直に接続する石列が見える。今は左右が草ぼうぼうのため、スロープのようにも見える。この石垣を右に越えて、櫓台の石垣を見に行こう。
斜面へ降りて、櫓台(曲輪隅部)の石垣を見に行く。このあたりは草刈りがされているのか、急に視界が開けて巨大な石垣が姿を現した!一同興奮。
東の曲輪、隅部櫓台の石垣。急斜面の上にせり出すように石垣が築かれており、隅部の足が長い。倭城でよく見るスタイル。石垣に勾配はなく一直線。普請は鍋島直茂が担当した。
隅石垣を真下から見てみよう。下から見ると隅石垣が逆勾配にカーブしているように見えるのは目の錯覚。算木積みの発展過程のような積み方が特徴的。時折かなりきれいに整形された石が混じっているのは転用石(朝鮮灯籠)だろうか。ちなみに朝鮮は土葬文化で、倭城でも「土饅頭型」の土葬跡が多数見られる。
隅石だけ草がなく露出しているのは整備をしているからだろうか? この上は主郭と想定される、東奥の曲輪。東西に立派な虎口を持ち、外周にも巨大な石垣が構築されている。
ではこのまま主郭へは入らず、主郭外周(北面)の高石垣を見てみよう。反対側は建物が建っていたり草ぼうぼうだったりしてとても見られなかったが、北側は散策ルートとして整備されているのか、見やすい状態になっている。
櫓台横あたりから主郭奥を見る。7−8mの石垣がずっと奥まで続いている。石垣の下の段は、ボコボコにはなっているが、帯郭的な空間だったのだろう。
表面を平らに整形された、結構な大きさの石が積み上げられた野面積みの高石垣。430年ほど経ち、さすがに一部は孕んでいるものの、当時の威容を残している。
北面石垣の中央部あたりにあった、石垣の稜線が埋まっている箇所。もともと曲輪はここまでで、途中で右側が増築された可能性がある。高さも2mほど積み増しされたように見える。史料には金海竹島城の改築指示や記録は特に無いようだが、文禄の役終盤の初期築城時に築かれ、そのまま慶長の役終了時まで存在した 最も使用期間の長かった倭城の一つ。敵の攻撃に備え途中で堅固に改築されていてもおかしくはない。
主郭北面の高石垣を西側から。この北側の長大な高石垣は、当時 東を流れる洛東江からもよく見えたことだろう。
北面の高石垣の端っこまで来た。結構な広さの主郭だが、図面によると他の曲輪はもっと広いようだ。10000人が収容できるという話もまんざらではない規模感。ここから西へ回り込んで主郭に入ることも出来るが、主郭西面は荒れていて分かりづらいので、一旦 東面へ戻り、先に見た桝形虎口から入ろう。
先程は櫓台の外側を通って回り込んできたが、今回は石垣に沿ったスロープを通って主郭の上へ。この道は当時の道ではなさそうだ。先程はこの右側の下を通ってきた。
ウロウロしていてどこか分からなくなったのだが、恐らく櫓台の頂部にあった、砲台跡と思われる大穴。
先ほど下から見上げた櫓台の隅石垣を上から。かなりの高さ。もう一歩踏み込んで撮れば良かった。
櫓台の上から、最初に見てきた桝形虎口を見下ろす。かなり埋もれているが、四角くなっているのがよく分かる。一見入口が無いように見えるが、正面の竹が横たえてあるあたりが枡形の入口。
主郭の中はこんな感じ。特に主だった遺構は無さそうだが、かなり平坦に均されていることが分かる。かつては櫓が建ち並び、土塀が囲み、兵舎などが所狭しと並んでいたことだろう。分かりづらいが、右手前にある茶色い棒状のものが金海竹島城の現地説明板。
金海竹島城の現地説明板。ハングルに比べて英文の少なさよ。しかし駐車場の機械翻訳に比べて、コチラの英文はちゃんと英語になっている。概訳「日本の大名 鍋島直茂により、文禄慶長の役の際に築かれた金海竹島城は、現在はわずか100mほどの城壁が残るのみとなっている。金海エリアに駐屯した日本軍の司令本部としての役目を果たした。2つの支城である農所倭城と馬沙倭城は、この城を守るために日本軍によって築かれた。」 英文の方は大した情報がなかった。
主郭部 西側。左奥にボコボコしているのは土饅頭(朝鮮の土葬跡)。右側の緑のシートの奥あたりの盛り上がりが、図面によると「天守台跡」とされているが。。。
天守台跡とされる盛り上がり。全く削平跡がなく、この上に何層もの櫓が建っていたとは、今はちょっと想像できない。

>> 金海竹島城 [2/3] へ続く。<<

訪問時期:2018年11月
撮影機器:FUJIFILM X-A3 + XF10-24mm

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