長門浦城は巨済島にある倭城の一つで、長木湾という小さな湾を対岸の松真浦城と挟んで守る目的で築かれたとされる。湾に近い中腹部(北)と奥の山頂部(南)にそれぞれ独立した曲輪群を築くという、対岸の松真浦城と共通する特徴を持っている。文禄の役の際に福島正則が築いたとされる。現在二つの曲輪群の間を車道が貫いており、特に湾に近い方の曲輪群には真横まで車を横付けできるようになっているものの、山頂の遺構には特に道はなく斜面を直登するしか無さそうだった。前回訪問時(2017)は時間の都合で山腹部のみだったため、今回改めて山頂部および山腹部の周辺も含めて全域を訪れてきた。
<基本データ>
●名称:長門浦城 (ちゃんむんぽ うぇそん)
●所在:慶尚南道巨済市 (地図)
●城主:福島正則か
●築城:文禄二年 (1593)
●遺構:石垣、虎口、天守台、登り土塁、竪堀
●時間:3時間10分 (9:30−12:40)
●情報:倭城
訪問時期:2018年11月
長門浦城 訪問記 (2018) − 其の一、二、三、四。
●続・倭城めぐりの旅 [2018] – 熊川/泗川/順天/長門浦/東莱/加徳/金海竹島
●倭城めぐりの旅 [2017] – 安骨浦/釜山母/機張/西生浦/蔚山/永登浦/松真浦/長門浦/梁山/亀浦
<訪問記>
長門浦城への道はここから。看板には真っ直ぐ進む方向に「文化財資料第273号 長門浦倭城 800m」とハングルで書いてある。ハングル読めないとここで曲がれない。
まず山上の遺構から見に行こう。ここに来るまでに山麓遺構前に駐車場があるのでそこに車を置いて、車道を歩いてここまでやってきた。このあたりから斜面を直登する。写真で言うと右奥へ進む感じ。登り口を示す何かは、特に無い。
しばらく斜面を無理やり上がると、元石垣と思われる石材の残骸が現れる。越えて奥へ。
なかなかの石垣がずっと斜面を分断している。ここから上がお城ということだろうか。
石垣に草がすごくかぶっていたので、少し払ってみた。なかなか大きめの石も随所に埋め込まれている。
隅部までやってきた。撤退時に破城したのだろうか、隅部だけ盛大に崩れているようにも見える。
石垣を反対側から。まだ結構埋まっていること、更に上もまだあったことを考えると、なかなかの高石垣。
こちらが虎口。腐葉土が積もって分かりづらいけど、右側から大きく回り込んで左奥へ入り込むように食い違い虎口が造られている。かつてはここもガッチリ石で固められていたのだろう。
虎口を越えて中へ。ここも大きめの曲輪で、奥に次の曲輪の土塁が見える。
次の虎口との間も、石垣で固められていたようだ。崩れたのか埋もれたのか、隅部以外は土になってしまっている。隅部を見に行ってみよう。
隅部の石垣。斜面を削平せずそのまま足の長い石垣を作っているのは、倭城で見られる特徴の一つと言ってもいいと思う。
かなり大きめの石が計10段ほど、隅を揃えてビシッと積み上げられている。
そして横から見ると、少し弧を描いているのが分かる。
上に登って下を見下ろす。結構な高さかつ斜面なので、下からはまったく上がってこれそうに無い。資料によると、この隅部から斜面下に向かって登り土塁があるのだが、現場ではうっすら分かったものの写真で見ると全く分からなくなっていた。長門浦城の登り土塁は、所々に石垣の残骸が見られるものの、殆どが土塁化(あるいはもともと土塁)していた。
隅部の石垣に沿って奥へ。なかなか堅固な石垣がそのまま残っていた。全面石垣ではなかったのだろうか、ここで石垣が終わっていた。
石垣の終わりの部分。折れ曲がりのところは、すごい巨石!
更に一段上へあがる。段々山頂部に近づいて来たからか、横幅も狭くなってきた。石垣で区画された細長い曲輪が続く。
曲輪を区画する石垣。ここは低め。
右側は崩れているが、帯曲輪的に横に細長い場所があり、崩れているがずっと石垣が続いていたように見える。
手前の曲輪と奥の曲輪をつなぐ、巨大な枡形虎口へ。
盛大に腐葉土が積もっていて石垣が相対的に低くなっているように見えるものの、本来はもう少し高い石垣が築かれていたと思われる。右に二回曲げられる。
虎口奥の石垣。奥に高い石垣が露出している部分が見える。
そして曲輪の外側の斜面には、登り土塁が築かれている。この土塁は山腹の曲輪群を囲むように二本伸びている。もう一本は一番奥の天守台より。
登り土塁を上から。肉眼ではよく見えたが、写真でこうしてみると、やや盛り上がっているのが分かる程度。枯葉を整理するとよく分かるかもしれない。
登り土塁を降りて横から見てみる。うーん。
登り土塁が伸びている曲輪外周の石垣。余り高い石垣ではない。
登り土塁がある曲輪全景を見返してみる。登り土塁があるのは向かって左側。よく見ると土塁が設けられている事がわかる。湾側に対して、守る・見せる城。
更に奥へ。いくつもの曲輪が連続して山上に築かれており、それぞれが堅固な虎口で厳重に接続されている。複数の大名が在番していた倭城において、それぞれの曲輪ごとに防衛担当があり、持ち場単位でしっかり守る必要があったということだろう。
次の曲輪の石垣。右側はコチラも大きな虎口。
こちらの曲輪を分断する石垣は、またも結構な高さで築かれている。どこの曲輪に誰が居たのかは今となっては分からないが、「朝鮮都引き取り、城々在番の事」という史料によると、文禄期の撤退時点では長門浦城には蜂須賀家政ら四国勢が在番していたとある。
>> 長門浦城 [2/4] へ続く。<<
訪問時期:2018年11月
撮影機器:FUJIFILM X-A3 + XF10-24mm
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