泗川城 [1/3] 劣勢の島津軍が明・朝鮮連合軍を撃退した歴史的大勝の地。

倭城 泗川城
泗川城(しせんじょう)は慶長の役で西に拡大した防衛ラインの一旦を担った城で、島津義弘率いる少数の島津軍が明・朝鮮の大軍を撃退した「泗川の戦い」の舞台となった。文禄の役では泗川湾で李舜臣率いる朝鮮水軍が大勝した泗川海戦もあった。湾に突き出た丘上に建てられ、陸側には巨大な二重堀切で分断されている。以前は慶長期の石垣が残っていたそうだが、一帯の公園化で元の姿とは全く違うキレイな石垣を造成してしまった模様。他にも城内にはなぜか姫路城を参考にした城門と、海戦の勝利を記念する碑などが建てられている。

<基本データ>
●名称:泗川城 (サチョン・船津里城)
●所在:慶尚南道泗川市 (地図)
●城主:島津義弘
●築城:慶長二年 (1597)
●遺構:天守台、石垣、虎口、空堀
●情報:倭城

訪問時期:2018年11月
泗川城 訪問記 − 其の一

続・倭城めぐりの旅 [2018] – 熊川/泗川/順天/長門浦/東莱/加徳/金海竹島
倭城めぐりの旅 [2017] – 安骨浦/釜山母/機張/西生浦/蔚山/永登浦/松真浦/長門浦/梁山/亀浦


<訪問記>

wajo_shisen_01_5429泗川城跡は「船津公園」となっている。眼の前には大きな駐車場。奥の丘の上が城跡だ。

wajo_shisen_02_5241駐車場にはトイレのほか、巨大な石碑や説明板が建てられている。まずはそれを見てから城へ上がろう。別名は「船津里城」。

wajo_shisen_03_5242石碑の脇にある説明板群。2つあるが、多言語化されているだけ。

wajo_shisen_03a_5245.jpg日本語の説明板。「泗川邑」とは泗川古城(朝鮮王朝の政庁、泗川邑城)のこと。慶長の役後半において、明・朝鮮連合軍は、順天・泗川・蔚山の三城同時攻撃作戦に出る。泗川城には数万の明・朝鮮軍が押し寄せたが、少数の島津軍は城を背に陣を張り、奇襲作戦や伏兵、敵食料庫や火薬庫の破壊などにより、大勝利を収めたと伝わる。しかしその時すでに秀吉は亡くなっていた。という話は全く韓国側の説明板には書かれていない。

wajo_shisen_04_5243史跡碑も3つ建っている。一番右がハングルが書いてあるので韓国の石碑か。左2つは漢字のみ、日本時代のもの? ともに「泗川船津里城」と書かれている。

wajo_shisen_05_5247では丘の上にあがろう。コンクリートでの公園化がされており、当時の構造はもうよく分からない。とりあえず説明板の横の坂道から上がる。

wajo_shisen_06_5249坂道をあがると、上に石垣と何かの建物が見えてきた。

wajo_shisen_07_5250横長に切り添えられた石が、目地をあわせた形で低く積み上げられた石垣。慶長当時のものでは当然なく、余り残存状況も良くなかったとのことだが、2008年頃にここが公園化された際に「新造」されたもののようだ。

wajo_shisen_08_5252倭城を歩く」を見ても、城の歴史の話がされているのみで、他の城の紹介文のように構造についてはほとんど触れられていない。それはこの城の現状に見られる石垣や構造が全く当時と異なるからだろうか?

wajo_shisen_10_5256石垣が一部張り出し、横矢が掛かる仕組みになっている。石垣の姿は異なっても、ラインはそのままと思いたいが、果たして。

wajo_shisen_11_5259丘には数段の平場が築かれ、その最上部に石垣の壁が築かれている。

wajo_shisen_12_5262石垣には一部 大きく開口され コンクリートの坂道がぶち抜いている場所があった。当時もここに虎口があったのだろうか? 門跡の礎石らしき跡や表示もナシ。

wajo_shisen_14_5267石垣の端っこの方は未整備のような状態になっていた。石垣も崩れたままのような形になっていて、あのあたりは本物かも、と思わせられる雰囲気があるが、果たして。

wajo_shisen_15_5269では虎口をあがって上段へ。更に上に低い石垣が築かれていた。

wajo_shisen_16_5270よく見ると石垣ラインの手前に、礎石列が見える。多聞櫓の礎石群だろうか? 遺構かどうかも分からないが、復元の際にわざわざこんな石列は造らないとも思う。

wajo_shisen_17_5272上段の石垣も折れ曲がりがいくつか造られている。訪問時は11月、枯れ木になっており石垣がよく見えるが、春に来るとこれだけの桜が植わっていればまったく石垣は見えないだろう。

wajo_shisen_18_5273足元を見てみると先程の石列がずっとここまで続いていた。時々折れ曲がっている。

wajo_shisen_19_5274ギリギリまで見て覗き込むと、下の段にも石垣がびっしり貼られている。先程石垣は途中で崩れているような雰囲気だったが、あの奥はまだこうして続いていたようだ。これも全部 新造なのだろうか?

wajo_shisen_20_5285では上段の石垣に沿って奥へ向かおう。周囲は石畳まで敷設されている。

wajo_shisen_21_5289斜面ギリギリに築かれた長大な石垣。

wajo_shisen_22_5293斜面の下を少し覗いてみると、こちらも段々の削平地が築かれていた。

wajo_shisen_23_5297石垣に沿って一番奥までいくと、天守台があった。天守台の上には忠魂碑が建てられている。

wajo_shisen_24_5300天守台へ。堀口健弐さんのサイト「城郭電脳日記」を見ると、整備前の天守台石垣はこんなにキレイではなく、他の倭城跡でも見られるような巨石を豪快に積み上げ隙間も多い野面積みだったようだ。どうしてこうなった。

wajo_shisen_25_5302天守台は上部が二段構造になっている、ようだが、どこまで本当か分からない。

wajo_shisen_26_5303端っこまで来た。隅部までキッチリとキレイに積まれている。すべてが10年ほど前に新たに造られたもので、細かく見る意味はあまり無い。

>> 泗川城 [2/3] へ続く。<<

訪問時期:2018年11月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF10-24mm
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