泗川城 [2/3] 細長い泗川湾が一望の天守台へ。

泗川城 訪問記 其の二。

<前回までのあらすじ>
公園化された泗川城跡へ。丘の上には、取り囲むように築かれた長大な石垣があるが、大半は公園化の際に新造されたもので、以前の写真と見比べると全く異なる様相に、細かく見ても仕方ないかと感じてしまう。

訪問時期:2018年11月
泗川城 訪問記 − 其の一

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<訪問記>

wajo_shisen_27_5305天守台の斜面側には、大きく削られた横堀があるという。降りてみよう。

wajo_shisen_28_5312天守台の外側にある、大きな横堀。地図での天守台の北側にあたる。資料によると当時は東を除いて三方を海に囲まれていたようで、この横堀は北側の海に面した法面上に作られていることになる。当時の泗川軍港がどこにあったか分からないが、北側にありそこから攻められた際を想定しての防衛設備かもしれない。

wajo_shisen_29_5316横堀の外側の土塁上から。右側がグリッと大きく削り取られているのが分かる。

wajo_shisen_30_5318いやあ、すごい横堀だ。当時はもっと深く、橋が無いと渡れない場所だっただろう。泗川の戦いでの明・朝鮮連合軍は陸から攻めてきているので、この北側の横堀では戦いは無かったかも。ここは天守の真下、ここまで攻められてきていたら逆にかなりヤバイ状況だ。

wajo_shisen_31_5321横堀の下から。急斜面の上に、そびえる石垣、そして高層櫓。

wajo_shisen_32_5307横堀をまた登って、天守台裏に戻ってきた。何だか不必要に帯曲輪が広い。湾側に見せるように石垣の城壁や櫓を見せるのであれば、もっと斜面ギリギリに当時の石垣があったのかも知れない。全部崩して積み上げ直されているので、よく分からない。

wajo_shisen_33_5333分からん分からんと言っていても仕方ないので、とりあえず石垣に沿ってぐるっと回ってみよう。

wajo_shisen_34_5334こちらは城の西側、今は埋め立てによりコチラ側のみが湾に面している。

wajo_shisen_35_5336湾は木々が生い茂っていて城からは余り見えないのだが、なんと急斜面に階段が設置されていて下に降りられるようだ。降りてみよう。

wajo_shisen_36_5341斜面に作られた階段。当時は北・西・南が海に面しており、蔚山城の戦いにも援軍を出したと伝わる泗川軍港があったのだが、この斜面を見るとコチラ側ではなく別の北か南か、という気もする。ちなみに北も南も埋め立てられ当時の面影は無い。

wajo_shisen_37_5343現在の泗川湾。コンクリートの部分は埋め立てだろう。

wajo_shisen_38_5344階段をあがっていく。竪堀っぽい凹みもあったが、どうだろうか。右側には岩盤がむき出しになっていて、これを削って階段を設置したようだ。

wajo_shisen_39_5347階段をあがって、再び城跡へ。石垣に沿って、今度は南側へ向かおう。

wajo_shisen_40_5349少しだけ城から湾が見下ろせる場所があった。これも冬場だけか。

wajo_shisen_41_5351南西部へ。石垣の隅が落ちるように凹まされている。

wajo_shisen_42_5354この凹みの部分に説明板が建てられていた。内容は、泗川の戦い(慶長期・朝鮮軍が大敗)ではなく、泗川海戦(文禄期・朝鮮軍が勝利)について。この頃はまだ泗川倭城は無かった。1592年5月29日、入り組んだ湾の奥地に居た日本軍船団を、潮流を巧みに利用した李舜臣率いる朝鮮水軍が破った。しかしこの戦いについては朝鮮側の文献にしか記録がなく、日本側から見ると極めて小規模な戦いであったか、戦いの存在自体に疑問が残るともされる。しかしこの頃 日本側は平壌まで侵攻していたものの、延びすぎた戦線で兵站(補給)が厳しくなりつつあり、また李舜臣率いる朝鮮水軍の反攻で軍船を失い始めていた時でもあった。秀吉の渡航も延期となり、明侵攻はひとまず置いて足元の朝鮮統治を進めるべくその拠点として「御仕置の城」の築城が進められていくこととなる。

wajo_shisen_43_5355泗川海戦の説明板はハングルと英語のみ。英語側をざっくり要約すると→「1592年5月29日に日本と李氏朝鮮(Joseon)が戦った水軍戦。李舜臣は秘密兵器 亀甲船(Geobukseon)を初めて使い日本水軍を撃退した。李舜臣は李氏朝鮮の将軍 元均と合流すべく、現在の麗水市(Yeosu)から23隻の船団で出発、途中で泗川へ移動中の日本船を発見し追跡、結果 泗川港に隠された12隻もの日本船を発見した。日本軍が陸側を押さえていること、潮が引いてきていることを知っていた李は、日本船団を海へおびき出し効率的に沈め、また地上の敵も同時に攻撃した。李は肩に銃弾を受け負傷したが戦いが終わるまで手当をしなかった。泗川海戦は亀甲船が初めて使われた歴史的な戦いとして、また李の襲撃者としての卓越した業績を今に伝える。」うーむ、表現がいかにも伝記的で、いろいろ大げさだ。

wajo_shisen_44_5358石垣の上へ上がってみた。ここにも礎石列が見える。ここが城の南端だろう。南側は埋め立てられ陸地になっているが当時はこの下は海だったのだろう。

wajo_shisen_45_5359このあたりには時折埋まっている巨石も見られる。当時もあり、何かしらに使われていたのかも知れない。

wajo_shisen_46_5363南西部から城内部を見返す。外周部は石列があり、少し盛り上がっているのが分かる。

wajo_shisen_47_5364土でかなり埋まっているのか、低い石垣と斜面になっているが、虎口っぽい場所。写真はカットしたが、右端に写っているのは泗川海戦の戦勝を記録した石柱。

wajo_shisen_48_5365複雑に折れ曲がった本丸外周石垣。

wajo_shisen_49_5367奥には公園化の際に建てられた模擬城門が見える。あとで見に行ってみよう。

wajo_shisen_50_5391先程下から見上げた天守台までやってきた。これもどこまで当時の姿形かは分からないが、二重構造になっている。

wajo_shisen_51_5370入口のところに建っていた説明板。「天守閣址」と漢字で書いてあるが、英語版を見ると何故か「Tenshuku」となっている。要約→「天守閣は日本式砦の古例で、戦国時代は物見あるいは司令塔として使われ、江戸期以降は力の象徴と見なされるようになった。この遺跡は(文禄・慶長の役での)戦時中に日本軍が母国の要塞をベースに築いたものと想定され、2005年の発掘調査にて大量の屋根瓦が出土した。石垣と城壁は2007年に修復(repaired)された。」 修復!

wajo_shisen_52_5372では天守台にあがってみよう。石畳の道と、手前の附櫓台から奥の天守台まで一直線に登れてしまう階段が付けられてしまっている。

wajo_shisen_53_5373附櫓台から天守台への小さな階段。当時も石垣はこの形だったとしても、この石段は無い。

wajo_shisen_54_5376天守台の上から、泗川湾を見下ろす。細長い泗川湾がまさに一望だ。

其の三では、なぜか姫路城を参考に造られたという模擬城門と、陸側を守っていた二重の巨大堀切を見に行きます。

>> 泗川城 [3/3] へ続く。<<

訪問時期:2018年11月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF10-24mm
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