熊川城 [3/3] 特徴的な天守台から伸びる登り石垣と三連縦積み石垣。

熊川城 訪問記 其の三。

<前回までのあらすじ>
文禄の役で西の防衛を担った小西行長の熊川城へ。北の屋敷跡から竹林を直登、東端の高石垣から城内主要部へ。分厚い石垣の壁に囲まれた曲輪群を通り抜け、本丸の天守台前までやって来た。

訪問時期:2018年11月
熊川城 訪問記 − 其の一

続・倭城めぐりの旅 [2018] – 熊川/泗川/順天/長門浦/東莱/加徳/金海竹島
倭城めぐりの旅 [2017] – 安骨浦/釜山母/機張/西生浦/蔚山/永登浦/松真浦/長門浦/梁山/亀浦


<訪問記>

wajo_kumakawa_61_5137では天守台へ登ってみよう。天守台の正面に石段がある。石段の前には大きめの石が埋め込まれている。

wajo_kumakawa_62_5152天守台の上へ。石垣の城壁の上部で見られたのと同じく、おびただしい数の石が埋まっており異様。そして歩きづらい。

wajo_kumakawa_63_5141s天守台の奥に建つ、城跡碑と説明板。

wajo_kumakawa_64_5143熊川城 天守台の上に設置されている説明板。英語とハングルのみ。英語の方をざっくりと訳すと→「ウンチョン倭城 1592-98の文禄・慶長の役で朝鮮半島南東岸に沿って日本軍によって築かれた約30の倭城の一つ。多数の軍船を停泊させるのに適した熊浦湾の南端に突き出た地に位置する。安骨浦、加徳島、巨済島に滞在する他の日本軍と連携できる戦略的な場所でもあり、また日本に戻る最短ルートの一つでもあった。1593年7月に小西行長の2番目の城として築城が始まった。彼は3ヶ月前に漢城(ソウル)から撤退している。当時の日本の城郭の特徴をよく残しており、丘陵の最高部に櫓を建て、その外周部には2重の城壁を持つ。また陸上からの攻撃から城を守るための3番目の城壁も残る。3mから8mの高さを持つ城壁は15000㎡もの地を囲んでいた(残るのは2mほどの高さかつ700mほどの長さのみ)。南山倭城とも呼ばれ、遺構が比較的よく残り、16世紀の日本の城郭に関する貴重な情報源となっている。」

wajo_kumakawa_65_5146天守台からは、特徴的な「登り石垣」が山腹に向けてずっと伸びている。訪問時は日没時間が迫っており、下からゆっくり見たりする時間が無かったのが残念!

wajo_kumakawa_66_5151天守台から「生える」ように伸びる登り石垣。これはすごい。

wajo_kumakawa_67_5155日暮れも近い! 慌てて降り始める。本丸から見た天守台。そういや前回も初日の安浦骨城(ちょうどここから湾を隔てて真向かいの城)も日暮れに迫られながら登城したっけ。。。

wajo_kumakawa_68_5157では本丸から大手虎口を通って下山しよう。

wajo_kumakawa_69_5160本丸の外枡形虎口のような場所。3つの曲輪の接続点になっていて、枡形虎口自体が小さな曲輪のよう。

wajo_kumakawa_70_5162枡形曲輪内。右側が最初に入ってきた東の曲輪群。左側は本丸。正面へ向かう。

wajo_kumakawa_71_5165食い違い虎口になっている。正面の笹藪も図面では曲輪になっていた。この曲輪の奥からもう一本の登り石垣が伸びているのだが、こんな状態で入れず。

wajo_kumakawa_72_5167斜面を降りながら、何度も折り曲げられる食い違い虎口。これは厳重だ。

wajo_kumakawa_73_5168本丸の虎口から出てきた。斜面の上にそびえたつ石垣。石垣の裏側は盛大に崩れてしまっている。石垣の前の大木あたりに巨大な城門が建てられていたのだろうか。

wajo_kumakawa_74_5171食い違い虎口の先には、もう一つの巨大な食い違い虎口が形成されている。ここの石垣は、天守台の登り石垣とともに、熊川城の特徴的な遺構の一つと言われる。

wajo_kumakawa_75_5173本丸斜面下の食い違い虎口。正面の石垣隅部を見てみると、石材が縦長に3つ積み上げられている。

wajo_kumakawa_76_5174アップで見てみよう。倭城の特徴の一つと言われる、縦積みの石垣。亀浦城などでも見られる。

wajo_kumakawa_77_5183三連縦積み石垣がある、本丸下の巨大食い違い虎口 全景。結構な斜面の上に造られている。

wajo_kumakawa_78_5178食い違い虎口の外周部を少し覗き込んでみる。結構な急斜面の上に築かれていることもあり、特に下側の石垣はかなり高いものになっているようだ。虎口の下から見上げるのが楽しみだ。

wajo_kumakawa_79_5186三連縦積みがある石垣は裏側が大きく崩れてしまっているものの、縦積み部分はしっかりと打込み接ぎの状態で残っている。

wajo_kumakawa_80_5188三連縦積み石垣をもう一度アップで。これはきっと、下から登ってきた人をあっと驚かせる見た目重視の縦積みだろう、と現地で見て感じた。

wajo_kumakawa_81_5187ではこの巨大な食い違い虎口を降りていこう。右側は外周石垣が崩れてその上に土が積もっているようだ。

wajo_kumakawa_82_5189虎口の入り口あたりから。三連縦積みの石垣は下から見上げると斜面の高さも相まって、かなりの高さにそびえ立っているように見える!よく見ると右側の石垣も縦積みだ。まさに縦積み虎口。

wajo_kumakawa_83_5195虎口の下はかなりの斜面になる。右側は盛大に崩れている。隅部なので、崩れたのではなく、撤退の際に崩していったのかも知れない。隅部を崩すのは破城の定番だ。

wajo_kumakawa_84_5201虎口の下から、虎口の外周部の石垣を見上げる。斜面の上に15段から20段ぐらいの石が積み上げられている。これはすごい迫力だ。

wajo_kumakawa_85_5203そしてコチラ側の隅部は、明らかに人工的に崩されている。崩される前は、かなり足の長い隅石が伸びていたことだろう。

wajo_kumakawa_86_5208縦積み虎口の、破壊された隅部石垣。

wajo_kumakawa_87_5210縦積み虎口を超えてしばらく進むと、登り石垣の城壁へとぶつかる。しかしこちらは大きく崩れてしまっている。

wajo_kumakawa_88_5212登り石垣には一部開口部が設けられていて、ここが城の主要部への入口となっていたようだ。

wajo_kumakawa_89_5213登り石垣の開口部。

wajo_kumakawa_90_5216登り石垣の一部が開けられていることが、石垣まだ下の方にもずっと伸びていっていることからも分かる。資料によるとこの石垣は山頂の曲輪から始まり山麓の熊川湾まで、全長600mほどあるとか。

wajo_kumakawa_91_5219少し斜面を降りてから、登り石垣と開口部を見上げる。斜面の上に築かれた長い石垣の城壁。熊川城での戦いは記録には残っていないが、かなりの防御力を誇ったに違いないと感じる巨大な城だった。

wajo_kumakawa_92_5222ここからはハイキングコースとして整備が続き、山麓まで歩きやすい道を降りられる。

wajo_kumakawa_93_5223しばらく降りてくると、英語・日本語・ハングルが書かれた案内板があった。本来はこちらのルートから登るのだろう。次回はコチラから上がってみよう。

wajo_kumakawa_94_5224山麓へ降りてきた。登り口へ向かう道沿いにも、このような案内板が建っていた。

文禄の役で最西端の防衛ラインかつ日本側の重要拠点だった熊川城。ここを守った戦国大名・小西行長は、文禄・慶長の役を通じて朝鮮側との交渉や西側防衛ライン、そして撤退戦での殿(しんがり)を担った、まさにMVPとも言える文武両面での活躍をしている。その後の関ヶ原合戦で西軍についたことで敗戦後に捉えられ斬首されてしまった経緯もあり、一般的には余り評価されていないのかも知れないのが残念だ。大河ドラマの主役になってその功績が見直されることを期待したい。

訪問時期:2018年11月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF10-24mm
– – – – – – – –
ブログ人気投票参加中. いつも投票アリガトウ(^-^)

投票するのも、順位を見るのも、上↑のアイコンを押してね!
ページの一番上に戻る