二俣城 [1/3] 二本の川に囲まれた要衝の地で武田徳川の激戦地。

遠江 二俣城
二俣城(ふたまたじょう)は、浜名湖の東を流れる天竜川とその支流の二俣川に挟まれた台地の先端部、比高40mほどの岩盤上に築かれた城。信濃と遠江とを結ぶ水上交通の要所であり、今川氏 武田氏 徳川氏などがここを抑えようと戦った。三方を河川が囲む岩盤上に築かれた天然の要害に築かれており、1572年の信玄上洛戦や1575年の長篠合戦後の徳川方による攻撃でもその堅固ぶりが発揮されている。1579年には信長から武田方への内通を疑われた家康の嫡男 信康が当地で切腹している。野面積みの天守台や虎口を形成する石垣などが良好に残る。なお二俣川は江戸中期(1791年)の河川工事までは二俣城のすぐ南を流れて天竜川に合流しており、旧二俣川の川向かいには徳川氏による二俣攻城のため築かれ堀尾氏時代には別城一郭の居館跡として整備された鳥羽山城跡が残る。

<基本データ>
●名称:二俣城 (Wikipedia)
●所在:静岡県浜松市天竜区 (地図)
●城主:依田信蕃 / 大久保忠世 / 堀尾宗光
●築城:16世紀
●遺構:天守台、石垣、虎口、堀切

訪問時期:2018年8月
二俣城 訪問記 − 其の一


<訪問記>

futamata_01_7959二俣城は比高40mほどの岩盤上にあり、中腹までは車道が伸び駐車場も整備されている。こちらが登城口の駐車場。説明板があるのでここから散策をスタートしよう。なおこの駐車場は資料によると「堀切跡」となっていた。

futamata_02_7842駐車場に設置された二俣城跡 説明板。川に囲まれた台地の上という天然の要害。2017年の大河ドラマ直虎の際に整備された説明板のようで、ここで自刃した松平信康(家康の嫡男)の母親であり家康の正室だった築山殿は井伊直平の孫で直虎とも親戚だ、という説明が書かれている。

futamata_03_7844付近の史跡を説明するパネルの二俣城跡 部分。城郭の基本的な姿は今川氏・徳川氏時代とされるが、石垣や天守台は1590年以降の堀尾吉晴が浜松城主を務めた時代(二俣城主は吉晴の弟の堀尾宗光)によるものと考えられる、とある。

futamata_04_7845では駐車場から城跡方面へと向かおう。石碑があるこちらが城跡方面。

futamata_05_7847城山公園案内図。簡単な城内のイメージ図がある。本丸を最上部に、すぐ下に二ノ丸、尾根上には北曲輪と西曲輪などがあるようだ。

futamata_06_7848登城口に建つ、立派な二俣城址碑。

futamata_07_7850キレイに整備された道を歩いて上がる。右側の大きな凹みは堀切(竪堀)跡。

futamata_09_7852尾根筋を分断する堀切・竪堀。徳川方と武田方が争った1570年代頃に築かれたものと考えられている。

futamata_08_7958道の右側にそびえる木々の向こうには、巨大な天竜川が流れる。が木々が生い茂り過ぎていてその堅固ぶりがあまり見えないのが残念。

futamata_10_7853道が整備されているので分かりづらいが、正面の石橋は左側にある北曲輪(旭ヶ丘神社)へ渡るために造られたもの。先程見た堀切がここを横切っており、石橋はその上を通すように造られている。当時の登城ルートはここではなく、本丸の向こう側にある大手口だった。堀切の右側には本丸への食い違い虎口があり、その手前部分は「馬出し」とあるものの、道が造られたためか現地では馬出し感は無い。

futamata_11_7857北曲輪跡に明治時代に建てられた旭ヶ丘神社。日清日露の戦没者を祀っている。両サイドを削り切岸化した独立した削平地だ。

futamata_12_7856北曲輪の向かい側には、堀切を越えて、本丸への石垣づくりの食い違い虎口が残る。ここから北曲輪へ繋がっていたと思われる。先程の石橋も当時は堀切に木橋が掛かっていた場所だろうか。

futamata_13_7860堀尾氏時代に築かれたとされる古いタイプの石垣。

futamata_14_7861食い違い虎口。本丸外周部は土塁で囲まれていた。

futamata_15_7863食い違い虎口を内部から見返す。石垣の上部は崩れ去ってしまっているが、当時は今のこる土塁の上端まで築かれていたのだろうか。

futamata_16_7866虎口部分は石垣づくりだが、そこから伸びる本丸外周の土塁の内側には石垣は見られない。なお外周も見てみたが、今は草に覆われてよく分からなかったものの、発掘調査報告書を見ると2mほどの石垣が残る箇所も見られ、当時は土塁外側全体が高い石垣で覆われていたと推定されている。

futamata_17_7862食い違い虎口を越えて本丸内へ。かなり広い。奥にぽつんとそびえる天守台。

futamata_18_7912本丸に建つ巨大な二俣城址 説明板。平成8年の建造だが、すでに割れ割れになっている。今川氏時代はここではなく笹岡城と呼ばれる、現在の市庁舎がある場所に城館があったようだ。ここに城が築かれたのは、1560年の桶狭間合戦後に徳川・武田が二俣の地を争い始めた頃のようだ。右下に二俣城跡の縄張図が掲載されている。

futamata_19_7913説明板に掲載されている二俣城 縄張図。現地に図面が掲載されているのは、大変助かる。

futamata_20_7865では本丸に建つ天守台を見に行ってみよう。写真ではよくキレイに整備(草刈り)された天守台を見るのだが、訪問時(8月)はこのとおり一面草に覆われていた。

futamata_21_7869二俣城 天守台。登る前にぐるっと外周を見てみよう。

futamata_22_7873隅部の石垣。長方形の石材の長辺と短辺を交互にして積まれた「算木積み」がなされている。1590年頃の当時最先端の技術だったと思われる。同時期に築かれたと考えられる浜松城の天守台とは、石材が異なるものの(浜松城は浜名湖北側の珪岩ベース、二俣城はこの山から取れる石灰岩ベース)、荒々しく叩き割った石材をそのまま積み上げた野面積みで、共通した雰囲気が感じられる。

futamata_23_7874天守台の南東面。

futamata_24_7875そして南端の隅石はなかなかの巨石を積み上げている。左側(南西面)は本丸外周の土塁を取り込んでいる。これも浜松城天守台と共通する特徴とか。

futamata_25_7877天守台の南西面。土塁の上は草ぼうぼうとなっており、ここからグルっと回って向こう側へ行くのは骨が折れそうなので止めた。一周回りたかったのだが。

futamata_26_7914再び石段の前まで戻ってきた。石段のすぐ横の隅石は流石によく見えるところだからか、しっかりとした算木積みが形成されている。ちなみに発掘調査により、今見えている石垣よりさらに地中に2段ほど石垣があると分かっている。

futamata_27_7916石段をあがって踊り場へ。4段ほどの石垣で囲まれたスペースへ。今も木の階段が掛けられているが、当時もこのように木の階段かハシゴが掛けられて天守に登るような仕組みになっていたのだろう。

futamata_28_7917天守台の上へ。草が一面に生えており天守の礎石など表面の状況はわからない。

futamata_29_7921天守台の上から本丸全景を見る。

futamata_30_7928天守台の横にはフクロウが止まる可愛らしい城址碑があった。こういうのもいい。

futamata_31_7880本丸南側より、本丸全景。この右側には、南に隣接する二ノ丸へ続く虎口がある。其の二では、二ノ丸から南曲輪方面を散策してみよう。

>> 二俣城 [2/3] へ続く。<<

訪問時期:2018年8月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF10-24mm
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