小倉城 [1/2] 南蛮造りの大天守を持つ総石垣の近世城郭。

豊前 小倉城
小倉城は、本州から関門海峡を越えて九州に入ってすぐの街 小倉に建てられていた近世城郭。関ヶ原の論功行賞で豊前40万石を得た細川忠興が、改易された毛利勝信・勝永親子の居城だった城を改修し、大天守を持つ現在の姿に変えたという。当時は東を流れる紫川の東側、現 小倉駅あたりも取り込んだ一大城郭だった。大天守は破風の無い層塔型かつ最上階が下層より広い「唐造り」というとても特徴的で稀有な構造だったが、江戸後期に焼失。昭和のコンクリート再建時に破風を多数構えた一般的な姿に改悪されている。城内の建物は幕末の第二次長州征討で小倉藩敗退の折に自焼した。現在は本丸および北の丸あたりの曲輪・堀などが良好に残り、下屋敷跡の庭園が復元されている。

<基本データ>
●名称:小倉城 (Wikipedia)
●所在:福岡県北九州市小倉北区 (地図)
●城主:毛利勝信 細川忠興 小笠原忠真
●築城:1609年 (細川氏による大改修によりほぼ現在の姿に)
●遺構:石垣、水堀、空堀、虎口、天守台、庭園
●情報:続日本百名城 No.181 (一覧)

訪問時期:2018年9月
小倉城 訪問記 − 其の一


<訪問記>

kokura_01_0732西小倉駅前の小倉城へ。駅前のリバーウォーク北九州という赤いショッピングモールを越えると、目の前は巨大なお堀が現れる。天気は最悪だが、俄然盛り上がってくる。奥に大天守が見えるがぐるっと回り込まないとたどり着けない。眼の前の石垣の上に建つ櫓っぽい意匠の建物は、北の丸に鎮座する八坂神社の建物(小倉祖霊殿)。

kokura_02_0853少し脇の土橋のところにマップがあった。上が南、西小倉駅は下にある。現在地からまっすぐ進むと大天守と庭園の間に入るが、古絵図を見る限りここに当時道は無かった。よって、ここからではなく、図の右下にある「北の丸」跡に建てられた八坂神社から城内をめぐってみよう。

kokura_04_0734では八坂神社方面へ向かってみよう。内堀が大天守に向かって伸びている。向かって右側が北の丸、左側は下台所跡。

kokura_03_0733内堀越しに見る大天守正面。この位置からしか正面は見えない。よく見えるようにわざとこのような堀の形をしている?

kokura_05_0735北の丸の外周石垣は草が一面を覆ってしまっている。他の石垣はキレイに整備されているのに、ここだけこんななのは、八坂神社の所掌範囲だから?

kokura_06_0736では八坂神社のある北の丸へ渡ろう。八坂神社は小倉藩時代は別の場所にあったものの小倉藩総鎮守で、明治になって当地に遷移したという。ちなみに当時はここは土橋ではなく木の橋が掛けられていたことが古絵図に残っている。

kokura_08_0740八坂神社の巨大な楼門。なんと車のまま境内まで乗り入れられるようになっていて、訪問時もバンバン車が通っていて危なかった。なお左右で石垣のラインがずれているのは、入ってすぐ右側に折れ曲がる「内枡形虎口」を形成していたため。虎口正面の石垣は恐らく神社が遷移してきた際に破壊されてしまったのだろう。

kokura_09_0741橋の上から、草まみれの北の丸石垣と水堀を見る。左側の変わった建物はショッピングモール。新旧コントラストがすごい。

kokura_10_0742北の丸へ。先程草ぼうぼうの石垣の上に建っていた小倉祖霊殿は、正面から見てもお城の意匠をふんだんに取り入れた形をしていた。いわゆる納骨堂的な建物。

kokura_11_0743北の丸 八坂神社。

kokura_12_0746八坂神社の狛犬さん。向かって左側の吽像で、由緒正しくツノが生えていたので嬉しくて撮影。垂れ耳の愛嬌あるお顔。

kokura_13_0752八坂神社から大天守方面へ向かう細い道へ。本丸の巨大な石垣と堀跡が間近に見られる。

kokura_14_0749北の丸と本丸の間の堀跡。古絵図を見ると水堀のように描かれているが、今は空堀となっている(大雨なので水が溜まっている)。

kokura_15_0751大きく折れ曲がる巨大な内堀。本丸の上には土塀が再建されているようだ。大天守は左前あたりになる。このままお堀に沿って左前方面へ進むと、北門を越えて、下台所方面へと通じる。今回はそちらへは行かず、北の丸から本丸へ直接入るルートを取る。

kokura_16_0753では北の丸から本丸へと通じていた、多聞口門跡を目指そう。北の丸から本丸へと直結する重要な門のため、堅固な石垣と櫓門が築かれていたようだ。左前に見えるのは着見櫓(つきみやぐら)、現在はぬか漬け屋さんになっているが、外観復元という。

kokura_17_0755多聞口門前の土橋の上から、空掘を見下ろす。本丸の石垣に付け足した跡が見られる。元々 着見櫓は単独の櫓台の上に築かれていたが、後に石垣が拡張されたのだろうか。

kokura_18_0756では本丸の入口、多聞口門跡へ。かつての石垣と石段がそのまま残っている。

kokura_19_0758多聞口門は右そして左へと折れ曲がる食い違い虎口となっている。大きく曲げられていて全く奥が見えない。

kokura_20_0759多聞口門跡の食い違い虎口。多聞口門というぐらいだから、周囲の石垣の上には多聞櫓がずらりと建てられ囲んでいたのだろう。

kokura_21_0760多聞口門 全景。此の正面ぐらいに櫓門が建っていたのだろう。

kokura_22_0761多聞口門 の櫓門礎石跡。左端に巨大で平らな石材が埋め込まれている。他の石と比べてこのい一列だけ表面がかなり平らになっている。多くの柱を持つ門だったのだろう。

kokura_23_0763多聞口門を越えて本丸側から見返す。手すりの下ぐらいのちょっと広いスペースが櫓門跡。

kokura_24_0764多聞口門跡 全景。すごい折れ曲がりだ!

kokura_25_0765本丸へ。中は砂利が敷かれていた。奥にトラックが停まっているのは現在 大天守のリニューアル工事中だから。

kokura_26_0766本丸東側の折れ曲がる石垣と水堀を見下ろす。右前の一段低い曲輪は古絵図には「御花畠」と書かれていた。

kokura_27_0768本丸の北東端に建てられた大天守が見える。広大な本丸にはかつて本丸御殿があったものの、江戸後期の天守焼失の際に御殿も焼けたとか。その後再建されたかは不明だが、再建されていたとしても幕末の第二次長州征討で自焼した際に失われているだろう。

kokura_28_0769本丸の脇に建っていた宮本武蔵の碑。誠心直道と書いてある。古い碑かと思いきや平成15年。小倉は武蔵が生涯最も長く滞在(7年)した地で、1612年 佐々木小次郎との試合の許可を得るため当時の小倉藩家老 長岡佐渡を訪ね、現在 庭園となっている長岡佐渡の屋敷にも滞在していたという。誠心直道とは武蔵が創始した兵法 二天一流の真髄を表す言葉。というような説明が左下の石碑に書いている。武蔵は養子の宮本伊織が小笠原氏に仕えており(最終的には筆頭家老まで出世)、小笠原氏の所領だった播州明石城やここ豊前小倉城にも訪れた記録が残る。

kokura_29_0771では大天守へ向かおう。附櫓とともにコンクリートで再建されている。姿は当時とは似ても似つかぬ復興天守。ちょうど訪問時点はリニューアル工事で営業していなかった。残念。

kokura_30_0772せめて柵越しに見る。説明板が色々建っているのが見えるが全く読めない。残念。

kokura_31_0773大天守の正面にある巨大な食い違い虎口、槻門(けやきもん)跡。

kokura_32_0774槻門の内部へ。地面がコンクリートで固められている。資料には「藩主、公儀役人の他、家老や主な寺の住職のみが通行を許された門」とあるが、この石垣は他の門で見られる野面積みの風格ある石垣とあまりに違い過ぎていて、公園化の際に再建されたものかもしれない。(鉄門の同様の石垣は再建とあったため)

kokura_33_0775ということで、槻門へは行かず、そのまま坂道を降りていって大手門方面へ向かってみよう。

kokura_34_0778右側が槻門の石垣、左側が大手門の石垣。全く様相が異なる。

kokura_35_0779槻門の石垣。手前右端の直方体に加工された石材をよく見ると、ドリル跡っぽい細長い穴が並んでいるのが分かる。

>> 小倉城 [2/2] へ続く。<<

訪問時期:2018年9月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF10-24mm
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