来島城:島全体を要塞化していた来島村上氏の活動拠点。

来島城(くるしまじょう)は、芸予諸島の南端、四国のすぐそばに位置する小島「来島」全体を城郭とした来島村上氏の海城。大島と四国の間の細い来島海峡を守る拠点城だった。来島村上氏は元は伊予守護河野氏の水軍の出だが、その後秀吉に仕え、伊予風早郡1万4000石の大名となった。関ヶ原後に豊後森藩に転封となり、久留島氏を名乗った(久留島陣屋)。久留島城は島の北半分の外周部に海蝕テラスがあり、そこに能島城甘崎城などと同様 多数のピット跡が見られる。島を縦断する山の頂部に細長い曲輪を複数段設けただけの、海賊城らしいシンプル構造となっている。また山中には多くの石垣跡が見られるが、城との関連や構築時代などは不明。

<基本データ>
●名称:来島城 (Wikipedia)
●所在:愛媛県今治市波止場沖 (地図)
●城主:河野氏、来島村上氏
●築城:15世紀頃か
●遺構:岩礁ピット、石垣?、曲輪、堀切など

訪問時期:2014年12月


<訪問記>

murakami_kaigun_map芸予諸島の村上海賊関連史跡。来島城の位置は最も南、四国・今治平野から目と鼻の先の離島に位置する。

kurushima-01_3794来島には しまなみ海道 は通っておらず、船で行く必要がある。来島港へ到着。

kurushima-02_3797来島村上水軍のノボリがはためく。奥の神社が気になる。「丸に上の字」で有名な村上氏の家紋は「能島村上氏」のもの(村上武吉で有名)で、ここ来島村上氏はノボリに描かれている不思議な文様、「折敷に縮み三文字」と呼ばれる。

kurushima-03_3798お城へ行く前に、神社にお参り。鯱が多数載っているこの神社は、来島の入口に鎮座する八千矛神社(やちほこじんじゃ)。鬼板や軒丸瓦には「折敷に縮み三文字」がズラリ。

kurushima-04_3800島内には あちこちで来島城址や柱穴跡を示す案内板が見られる。柱穴跡(岩礁ピット跡)は島の北部全域に残り、南部の港からは右回りか左回りで行くことになる。今回は左回り(西側)のピットを見に行ってみよう。

kurushima-05_3804港の近くで見つけた、手書きの 来島城跡 説明板。元は伊予水軍(河野氏)から派生した村上水軍は、三つに分家しそれぞれが能島・因島・来島を拠点とし、戦国時代から秀吉時代にかけて各所の戦いで活躍するも、徳川政権になると豊後森藩(大分県)に移封され、水軍としての歴史は終了した。図を見ると、山上に幾段にも仕切られた跡があり、磯には館の柱穴の跡が多く残り、島内には矢竹なども生えている。とあるが、磯(海蝕テラスと呼ばれる波により削られた岩盤)に残る柱穴は館ではなく船の桟橋あるいは係留するための柱を建てた跡とされる。

kurushima-06_3822八千矛神社の近くにある来島観光休憩所へ寄って、中で資料を見よう。

kurushima-07_3823来島城の予想復元図。ピット跡のところには、桟橋が描かれている。また島内に多く石垣があることから、山上南側の曲輪群の外周部は総石垣づくりとして描かれている。

kurushima-08_3802手書きの図面も掲示されていた(違う建物だったかもしれない)。現在は南端の街におり、これから島の西側をぐるっと迂回する道で北側へ回り、海蝕テラスへ降りてみる。

kurushima-08a_3802.jpg説明文部分のアップ。簡潔な文章で分かりやすい。難攻不落の海の要塞とあるが、古文書によると来島氏が天正期に織田方に付いた後に河野・毛利軍より攻撃を受け、一度落城しているようだ。

kurushima-09_3821島の西側を真っ直ぐ伸びる道を北へ進む。住宅街の脇にある小道という感じで、ほとんど人も居なくて心細い。

kurushima-10_3820一番端っこまで来た。突き当たりを少し民家の裏へ回り込んでみよう。

kurushima-11_3819多数の波消しブロックの奥に、海蝕テラスが見える。あそこに多数の岩礁ピット(柱穴)跡が残るという。波消しブロックの奥から下に降りられるので更に回り込む。

kurushima-12_3817ここから降りられそうだ。

kurushima-13_3815海蝕テラスへ降りてきた!快晴だが西側の岩盤のすぐ真下で、なおかつ波打ち際ということもあり、薄暗くて地面もヌルヌルジメジメしている。滑ってコケたら大怪我必至だろう、気をつけて進む。

kurushima-14_3813海蝕テラスを少し奥へ進む。

kurushima-15a_3810.jpg足元をよく見てみると、早速 岩礁ピットを発見! 手前の一つだけかと思いきや、よく見ると海に向かって一直線に3つ並んでいるのがわかる。潮が引けばもっと続いていることが見えるだろう。

kurushima-16_3809連続した柱穴。

kurushima-17_3812岩盤を結構深くまで掘り込んでいる。石などが埋まっているが、差し込んだ木材が倒れないようにするなら深く刺さないといけないだろうから、穴を見て想像するよりもかなり深いかもしれない。

kurushima-18_3826では海蝕テラスから戻り、今度は山上の城跡へ向かってみよう。街に戻ってきて、今度は「来島城趾」方面を目指す。ちなみに同じく書かれている「心月庵」は城主の屋敷跡に建てられているのだが未訪問。

kurushima-20_3827暫く進むと、山の斜面に石垣が築かれ、その手前に立派な「来島城址」の石碑があった。城址碑があると嬉しいが、その裏の石垣が気になる。徳島城のようにカーブを描くように築かれており、石材もなかなかの大ぶりだ。村上水軍博物館(能島城)でもらった資料によると、来島城の石垣は年代不明とのこと。

kurushima-21_3829来島城址碑の裏の石垣。400年前に廃城になったことを考えるとキレイすぎる、途中から石材の雰囲気が変わっている、など不自然な点が多いとも言える。ただし、甘崎城のように、伊予を領した藤堂高虎により改修された可能性もある。詳細調査が望まれる(来島城跡は充分な発掘調査が行われていないとのこと)。

kurushima-22_3833ここから山へと登っていく。途中 道の左右を見ると、段々に加工されその側面が石垣になっている箇所も見られた。眼の前の段だけでなく、一番上も石垣になっている。

kurushima-23_3884山の中腹には村上神社が祀られているため、参道として整備されているようだ。村上神社の石鳥居。

kurushima-24_3881こちらが村上神社。神社とともに作りました感のある石垣があるが、城址碑や段曲輪のところで見たものとはまた違う。

kurushima-25_3834神社の中は絵が奉納されていた。少し見学していこう。

kurushima-26_3838来島村上家の有名棟梁たちを描いた図。雰囲気のある絵だ。左から、村上通総、通康、通之。戦国期に活躍した親子で、室町末期に河野水軍の中核となっていたのが通康、その長男が通之で他家を相続、そして三男の通総が家督を継ぎ、その後 秀吉の元で活躍出世し大名となった。それぞれの絵には 因島水軍 村上弘贇 と署名がある。

kurushima-27_3841村上神社から少し上がると、恐らく二ノ丸跡と思われる広い削平された尾根へ出る。

kurushima-28_3842二ノ丸、あるいは本丸と二ノ丸をつなぐ城内通路と思われる、広く細長い削平地を進む。右側は削平地を狭める様に大きく掘り込まれている、ようにも見える。

kurushima-29_3846ここからもう一段あがると本丸へと到達する。本丸と二ノ丸の間は大きな段差があり、恐らく切岸だと思うが、草茫々でよくわからなかった。ハイキングコースとして整備されたかもしれない小さな階段から上へ。

kurushima-35_3870山頂部へ出た。かなりキレイに削平されている!

kurushima-34_3871城址碑は下に建っていたので、本丸には代わりに来島城本丸跡の立派な看板がある。島の電力を愛媛側から受け取っている鉄塔が建っている。下から見たときはこの鉄塔を目指せば良い。

kurushima-32_3879本丸の北端へ行ってみよう。木々が伐採されていて、眺望が良さそうだ。

kurushima-33_3865来島城 本丸からの眺望、北面。正面に見えるのは大三島。左端の比較的近くに見えるのは四国 今治平野の北端。ここに物見櫓が建っていれば来島の周辺一帯がまさに一望だろう。

kurushima-30_3860では本丸の南へ向かってみよう。左右は切岸となっているのか、結構な急斜面で、本当に細長い削平地という印象。

kurushima-31_3850曲輪を分断するように凹み部があった。これだけ削平されているので、人工的に凹ませていた跡だろう。村上氏は海賊なので山城での戦いは余り想定していなかったと思われるので、堀切というよりは、排水か建物構造の都合によるものだろうか。

kurushima-36_3847本丸の南東側にも少し飛び出た地形があった。ここで南東方面を見張る場所だったのだろう。南側は二ノ丸へと連なる。

kurushima-37_3867来島城 本丸からの眺望・東面。右側の陸地は四国・今治で、馬島をまたがって、大島方面へと しまなみ海道が貫いている。村上海賊もビックリの光景だろう。

kurushima-38a_6612.jpgおまけ:大島南部の亀老山展望台から見た、来島海峡の島々。すごい眺め。ただ来島城は小さすぎて見えないので、ズームしてみる。

kurushima-38b_6614.pngおまけ2:来島城は街道の奥に見える「小島」の更に奥にある小さな島。来島海峡には来島城だけでなく、他に務司城(むしじょう・武志島)と中途城(なかとじょう・中渡島)もあった。これら2城は来島村上氏ではなく能島村上氏の支配下だった。橋が貫く海峡中央の馬島を隔てて左右で能島と来島で海峡を分けていたのだろうか。

訪問時期:2014年12月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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