蔚山城 [2/3] 本丸東の巨大枡形虎口から舟着場へと伸びる大手道。

蔚山城 訪問記 其の二。

[前回までの訪問記 概要]
三ノ丸下の駐車場より登城開始。三ノ丸までは整備された公園だが、三ノ丸から二ノ丸へ向かう前に本丸下の斜面に石垣が断片的だが多数残っている姿を見て、二ノ丸ではなく本丸斜面横断を選択。石垣を見ながら斜面を横断すると登り石垣までやってきた。

訪問時期:2017年11月
蔚山城 訪問記 − 其の一
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<訪問記>

wajo_ulsan-28_7047登り石垣の内側には、コンクリートの石段が設けられている。当時はこんな道は当然なかった。なお登り石垣は階段の左側にある僅かに盛り上がる場所。残りの良い場所とそうでもない場所があるようだ。

wajo_ulsan-29_7050階段の一番上までやってきた。遮るように石垣が築かれている。更に上方には大きな石垣が見える。あの上が本丸に当たる。本丸の回りを取り巻くように幾つかの帯曲輪的な空間が築かれていたのだろう。多くの石垣は埋もれてしまっている あるいは崩れてしまっているが、山頂部は絵図に描かれるような「4つの曲輪が高石垣の上に築かれているだけ」の単純な構造ではなく、実際は複雑な構造を持つ城だったと想像できる。

wajo_ulsan-30_7052もう一段上の、大きな石垣の前までやってきた。ここも、左奥の巨大な石垣隅部の一段下にも石垣がある。

wajo_ulsan-31_7055本丸隅部の石垣。ここも元の丘陵の角度なのだろうか、かなり緩やかで足の長い独特の積まれ方がされている。蔚山城は日本軍・朝鮮人民を大量動員して僅か40日ほどの突貫工事で完成直前まで持っていったと記録されている。算木積みなどの日本式 築城技術を全て適用させるだけの余裕も統制も取れなかったのが現場の実情だろうか。また緩やかだと言って簡単に登れるわけではなかっただろう。実際に、資料によると、明軍はなかなか落ちない蔚山城を火攻めにしようと薪を使って三ノ丸に火攻めを仕掛けたが、三ノ丸内部からの執拗な銃撃により遂に火攻めが成功することは無かった、とあった。

wajo_ulsan-32_7059先ほどの本丸 隅石垣をサイドから。他の倭城ではもっと自然石を荒々しく積み上げた野面積みの石垣も多いが、ここ蔚山城は表面を揃えた打込み接ぎによる石垣が主体のようだ。

wajo_ulsan-33_7061二段になっている石垣。下の段もそこそこの高さがある。

wajo_ulsan-34_7063そして更に奥へ向かうと、当時のものと思われる石段が現れる。ここは舟着場や大手口に繋がる、蔚山城の大手道にあたる主要路と考えられている。正面奥には先ほど見た二段の石垣が見える。朝鮮明軍は恐らく、この大手道あたりまでは攻め込んでいただろう。

wajo_ulsan-35_7070大手道の石段をあがる。

wajo_ulsan-36_7074巨大な二段の石垣の手前を大手道は右へと曲がる。

wajo_ulsan-37_7076この小丘も元は岩盤が露出する岩山だったのだろう。時折巨大な自然石を石垣に取り込んだ場所も見られる。

wajo_ulsan-38_7078右へ折れた先は、本丸東側の枡形虎口へと繋がる。こちら側は本来は二本の登り石垣で囲まれた惣構内にあたるため、本丸へと直結する。

wajo_ulsan-39_7077枡形虎口の手前に設置された「本丸出入口」説明板。以下スマホ翻訳アプリ訳(日本語直訳をあきおうが意味が通るように推測)→「本丸は東と北の二箇所に出入口を持ち、東のものが主出入口で、南の舟着場と接続している。出入口の形状は中折れ型で『枡形虎口』と呼ばれ、当時の日本の城で最も発達した形式であった。外部から内部を見ることが出来なくなっており、攻め手は不安を覚え、守り手は集中的に攻撃を与える事ができる構造である。記録によると、門は石垣と石垣の間に楼閣を掛け、その下に扉を設置した二階建ての『櫓門』であり、壁には銃口を作り、有事の際の連発射撃の拠点として使用した。」 ちなみに本丸のことを朝鮮では「ボンファン」と呼ぶようだ(英語表記参照)。

wajo_ulsan-40_7081本丸東 枡形虎口を下から見上げる。間口はかなり広い。櫓門は通常は枡形の内側、つまり右上奥に横向きにあったと想定される。

wajo_ulsan-41_7079このあたりは瓦が多く落ちている。同行者が発見した、状態の良い瓦片。表面に草のような文様が入っている朝鮮瓦。

wajo_ulsan-42_7082枡形に入る前に、蔚山城で最も状態が良い高石垣を見てみよう。本丸東面。

wajo_ulsan-43_7083東側は横矢掛けで一度石垣が折り曲げられている。斜面をあがって石垣に張り付いた敵兵も、横から攻撃されて死体を重ねるばかりだ。

wajo_ulsan-44_7089張り出している方の石垣。野面積みで、隅部も算木積みには余りなっていない、清正築城時代の熊本城の石垣にも共通する雰囲気だ。ちなみに右奥の凹んだ方の石垣は、恐らく大幅に積み直し工事(元の姿通りに積まないやり方)で行ったのだろうか、全く雰囲気が異なる積み方がなされている。

wajo_ulsan-45_7090恐らく積み直しがなされていない、枡形虎口横の高石垣。焼けた跡だろうか、黒く変色している石材も多く見られる。

wajo_ulsan-46_7091では枡形虎口を通って本丸へあがろう。枡形虎口内部も斜面になっている。

wajo_ulsan-47_7092枡形虎口の内部、櫓門があったあたりから、枡形全体を見下ろす。かなり広い枡形だ。ここにおびき寄せた敵兵は周囲の石垣や城門から一斉攻撃だ。斜面の途中ということもあり、かなりの防御力を誇ったことだろう。

wajo_ulsan-48_7095枡形の上、恐らく櫓門が掛かっていた土塁上から、枡形の右折れを見る。よく見ると右奥、枡形の入って正面に当たる場所には鏡石ならぬ巨石がうまく使われていることが分かる。

wajo_ulsan-49_7097本丸 東辺から見下ろす、蔚山の町並み。当時はこの方面は軍港があり、港が見下ろせたはずだが、今は大いに埋め立てられてしまい、海は遥か彼方のビルの合間に少しだけ見える程度となってしまった。かつては目の前には惣構の土塁が縦に走っていた。

wajo_ulsan-50_7096その総構えの土塁の説明板「外城 土壘址」があった。壘は塁の旧字。以下翻訳アプリ訳→「蔚山城の主郭部 下平地に太和江と面した南を除く三面に土塁と堀を築き、外郭部を構築していた。日本の城の用語で『総構え』と呼び、外郭部外周は2.7kmに及んだという。主郭部の防衛と同時に、兵士の宿泊施設や食料倉庫などに使用されていたと想定される。1984年に始まった土地区画整理事業前までは、東の城壁から中央女子高に至る区間に長い土塁が残っており、その形からラッパと呼ばれていた。」 確かに左上の古い航空写真にも土塁らしき黒い線が写っている。

wajo_ulsan-51_7101本丸の様子。コンクリートで整地され、完全に公園と化している。と思ってろくに散策をしなかったが、正面奥には史蹟碑などがあったようで見逃してしまった。また本丸の上からは分かりづらかったが、本丸から北側に張り出す形で天守台跡もあったが、こちらも気付かずスルーしてしまった。見ての通り西日がかなり傾いており、慌てていたこともあるが、慌てるとロクなことにならないことを異国の地で思い知らされてしまった。

wajo_ulsan-52_7100本丸にあった説明板。やはり本丸はボンファンと書かれている。「蔚山城の主郭部を構成する3つの曲輪の中で最も重要な空間で、標高50mの山頂に位置する。記録によると、築城当時は外周は763mに達しすべて石垣城壁を築き、その上には土塀を設置していた。出入口は東と北の二箇所あり、内部には6棟の矢蔵(櫓)と兵舎2棟があった。しかし有事の際の戦闘指揮所として使用される天守は建設されていなかったと思われる。」 土塀の事例として、左上には熊本城の土塀の写真が掲載されている。

wajo_ulsan-53_7102説明板にも出てきた、本丸の二つの出入口のもう1つ、北の虎口。本丸上から見下ろした図。土塁や石垣が崩れてしまっていて一見分かりづらいが、左折れの虎口跡と、奥の木の根元あたりには僅かながらに石垣も残っているようだ。なお今居る場所の(見切れているが)右奥には天守台跡があったはずなのだが、全く眼中に入っておらずスルーしてしまった。

>> 蔚山城 [3/3] へ続く。<<

訪問時期:2017年11月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF10-24mm
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蔚山城 [2/3] 本丸東の巨大枡形虎口から舟着場へと伸びる大手道。” への2件のフィードバック

  1. 「本丸」と言う漢字をそのまま韓国式に発音すると「ポンファン」となります。「天守閣」だと、そのまま韓国式に発音して「チョンスガク」と紹介されています。
     なお蔚山倭城に天守台は存在しませんし、破壊されて無くなったのではなく元から存在しなかったと思われます。『倭城を歩く』の加藤理文氏の記述自体が間違っているのです。

    1. コメントありがとうございます。現地を訪ねたときまったく天守台らしい雰囲気がなく「見逃して」しまいましたが、例の籠城戦の古絵図にも二層櫓ばかりで天守らしい建物はありませんし(遺構の構造と作りが異なるのでどこまで正確かは疑問が残る絵ですが)また訪問した時には元から天守台ではなかったという観点も持って見てみたいと思います。

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