蔚山城 [1/3] 加藤清正の壮絶な籠城戦で有名な戦線東端の拠点。

倭城 蔚山城
蔚山城 (うるさんじょう) は慶長の役で築かれた戦線東端の拠点。慶長二年末、加藤清正の指揮で独立丘陵上に築城の途中、朝鮮・明軍に包囲され、籠城戦となる。当時清正は西生浦城の改修工事に行っていたが急報を聞いて蔚山へ戻っている。堀や土塁は未完成で準備不足もあり惣構は早々に破られるも、内城である三ノ丸以降は決死の防衛もあり落ちなかった。やがて水も食料も尽き、寒さと飢えと弾薬枯渇で限界が近づいた籠城14日目、ついに毛利吉成ら救援部隊が蔚山城外に集結。それを見た明軍は撤退を開始、日本軍の追撃により一万人以上の死者を出す大敗を喫した。蔚山城を守り抜いた日本軍だったが、凄惨な籠城戦を目の当たりにした諸将は以降、在番城郭の大改修や戦線縮小を行っていくこととなる。そして蔚山籠城戦の8ヶ月後に秀吉は死去、12月には全軍撤退となり蔚山城も放棄された。現地は都市化と公園化により改変・破壊されたものの、山頂主郭部の外周石垣は一部ながら良好に残っている。

<基本データ>
●名称:蔚山城 (うるさん うぇそん)
●所在:蔚山広域市中区 (地図)
●城主:加藤清正
●築城:慶長二年 (1597)
●遺構:石垣、虎口、登り石垣
●情報:倭城

訪問時期:2017年11月

蔚山城 訪問記 − 其の一
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<訪問記>

wajo_ulsan-01_6994蔚山城は「鶴城公園」という場所にある。入り口にある案内板。表題などは一部英語表記もあるが、本文は全てハングルだ。ちなみに右下のハングルは「蔚山城の戦い」と書いてある。

wajo_ulsan-02_6995蔚山城の戦いの古絵図。慶長二年、加藤清正は西生浦城の北に築城を開始。40日あまりの突貫工事で完成間近になった頃、突如 朝鮮・明軍が押し寄せ包囲した。未完成だった城は惣構を破られ、加藤清正らは準備も整わない中で主要部に籠城することとなる。十分な食料も無く凄惨な籠城戦となったが、二週間後、駆けつけた毛利吉成ら援軍が逆に明軍を外側から取り囲み、撤退を開始した明軍を逆に追撃し大いに撃破した。城外には敵の死体が一万体以上放置されていたという。蔚山城の戦いは終結した。

wajo_ulsan-03_6996蔚山城の現状マップ。小丘の公園をグルっと取り巻くように石垣が残っている・・・ように見えるが、実際にはこれほどの規模では残っていない。現在地は左下の赤丸。最初は点線に沿ってグルっと回り込んで最初の曲輪、三ノ丸を目指そう。

wajo_ulsan-04_6997sでは蔚山城を登ってみよう。公園と化しているので、通路はコンクリートで舗装されてしまっているが、斜面は土のままのようだ。

wajo_ulsan-05_7001しばらくは通路に沿って進む。案内板は基本ハングルだが、日本語に由来する場所(ここでは「三之丸」)は漢字表記もあった。左は「公園出入口」。

wajo_ulsan-06_7002斜面を進んでいると、土に埋もれながらも少しだけ顔を出している石垣の跡が見えてきた。

wajo_ulsan-07_7003隅石と思われる積み方をしている場所も見られる。しかし全体的に土をかぶっていて、よく分からない。発掘調査をすると全貌が明らかになるかもしれない。

wajo_ulsan-08_7007s最初の曲輪の手前までやってきた。道がカーブを描きながら、左右の土塁の間を入っていく。コンクリート化で分かり辛いが、虎口跡だろう。

wajo_ulsan-09_7006上がったところに説明板があった。ここは三之丸 出入口で、古文書によると、当時ここには「冠木門」が建っていたという。左上の冠木門の写真は何故か「赤穂城」のもの。近年復元された二ノ丸庭園の門だ。

wajo_ulsan-10_7008こちらが三之丸 全景。なぜか石畳になっている。石垣を崩して得た石材を埋めたのだろうか。これでは建物跡などの遺構は失われてしまっているだろう。

wajo_ulsan-11_7009「三丸趾」と書かれた古い石碑。

wajo_ulsan-12_7010三之丸からは、散策ルートは二ノ丸へと続いているが、そちらへは進まず、本丸外周の石垣を見ていこう。散策道ではないので、斜面を直接 横移動。なだらかな斜面の上に巨大な石垣が見える。

wajo_ulsan-12a_6996s.png先の案内図にこれからの移動ルートを追記。三ノ丸から二ノ丸へは向かわず、直接 本丸南側の斜面上に残る石垣を見ながら、登り石垣まで行ってみよう。

wajo_ulsan-13_7011斜面に合わせてか、かなり緩やかな角度の石垣ではあるが、当時は山頂全体を覆っていたのだろう。

wajo_ulsan-14_7015丸い石や、四角く加工された石など、様々な形の石がそのまま積み上げられた石垣。40日の突貫工事で築城されたためか、石垣もかなり急ぎ手配して積み上げた感がある。左側は途切れているが、積もった腐葉土を掘ると石垣が出てくるかもしれない。

wajo_ulsan-15_7016ここから先には断続的に石垣が顔を出している状況。このあたりは埋まっているというより失われた感じだ。また山頂部に近いからか、かなり角度が緩やかに積まれている。これだとそのまま直接登れてしまいそうだが、実際はどうだったのだろうか。

wajo_ulsan-16_7019角度が緩やかすぎて、石垣というより斜面に石を並べているようだ。

wajo_ulsan-17_7022しばらく進むと、また石垣らしい急角度になってきた。こうでなくては。

wajo_ulsan-18_7025ここまで部分的にしか石垣が残っていないのは、元々 斜面全周をぐるっと取り囲んでいた石垣を撤退時に自ら破却したからだろうか。名護屋城跡でも長い石垣を破却するのに、隅石だけでなく、中央部でもV字型に石垣を崩した跡が今も残っている。参考

wajo_ulsan-19_7026僅かに残る石垣跡。

wajo_ulsan-20_7030このあたりは大きく石垣が残っている。かつてはこのように斜面の一番上までビッシリと石垣が積み上げられていた。下は土と枯葉に埋もれているので、発掘を行えばもっと高く急角度の石垣が出てくるような気がする。

wajo_ulsan-21_7031角度はそれほどでも無いが、これだけの高さ(更に埋もれているだろうから本来はもっと高かったことだろう)があると、そう簡単には登れそうにない。未完成かつ準備不足で寡兵ながら、加藤清正らはこの蔚山城に朝鮮・明軍を相手に立てこもり、援軍が来るまでの2週間もの間、飢えと寒さ(戦いは12月末から1月頭)の中、ついに城を守り抜いた。

wajo_ulsan-22_7034やがて、斜面に縦に築かれた石垣までやってきた。蔚山城の登り石垣だ。

wajo_ulsan-23_7035蔚山城の登り石垣。こちらも崩れている(あるいは埋もれている)箇所は多い。登り石垣に沿って斜面を降りる。

wajo_ulsan-24_7038機張城西生浦城など、登り石垣が明瞭に残る倭城は他にもあるが、蔚山城の登り石垣は周囲の斜面が公園化していて非常に見やすい状態になっているのが特徴的だ。

wajo_ulsan-26_7045登り石垣に沿って降りていくと、遊歩道のあたりに説明板があった。

wajo_ulsan-27_7046登り石垣の説明板。タイトルは「傾斜型の城壁」と書かれている。ハングル部分を翻訳ソフトで読んでみる。「傾斜地に沿って積んだ長城の形の城壁を日本の城の用語で 登り石垣 と呼び、倭城の最大の特徴の一つとして挙げられる。蔚山城は本丸の南城壁から舟着場までの稜線に沿って長い傾斜型城壁を接続することで、有事の際に舟着場を効果的に保護し、本丸から舟着場まで至る安全な通行路が確保された。」とある。

wajo_ulsan-27a_7042遊歩道から見上げる登り石垣。壮観だ。ちなみに蔚山城の戦いの古絵図では、舟着場と主郭部の間も敵兵が描かれており、資料でも惣構は戦闘開始から2日目には突破され内城に退いた、とある。よって、この登り石垣が活躍することは残念ながら無かったようだ。

>> 蔚山城 [2/3] へ続く。<<

訪問時期:2017年11月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF10-24mm
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蔚山城 [1/3] 加藤清正の壮絶な籠城戦で有名な戦線東端の拠点。” への2件のフィードバック

  1.  蔚山倭城の登り石垣は、私が最初に訪城した1990年頃は雑草も少なくて良く見えました。
     しかし2000年代に入って雑草が生い茂り、一時期肉眼で見えない状態になっていました。これを韓国側の研究者とボランティアの方が雑草を伐採して、再び現在のように見やすくなたとのことです。

    1. コメントありがとうございます。山城は日本でも何処でも、整備をしなくなり放置されるとすぐに草が生い茂り文字通り山に戻ってしまうものです。継続的な整備はコストが掛かりますが是非実施していただきたい(実施できる体制を行政に整えてもらいたい)ですね。

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