浦戸城 [2/2] 四国全土を手に掴もうとする元親公像は必見。

浦戸城 訪問記 其の二。

[前回までの訪問記 概要]
坂本龍馬記念館の駐車場から、天守台跡と詰ノ段跡から出土した石垣等を見学。城西側の堀切跡を見に山中へ。その後、元親公の墓所と銅像を訪問します。

訪問時期:2017年5月
浦戸城 訪問記 − 其の一


<訪問記>

urato_35_9354三ノ下段。かつての西部 曲輪群跡と思われる場所は、このように整備され眺望の良いハイキングコースとなっていた。目指すは堀切。

urato_36_9350先ほどの展望台手前あたりにある、堀切看板。この道の奥に堀切が残る。

urato_37_9351堀切 説明板。三本連続で築かれた堀切跡が残るという。かつての居城だった岡豊城跡にも同じような三本の堀切が見られる、とあるが、あちらは三本どころか大量の堀切・竪堀跡が残るものの、堀切の形がはっきり分かるほど周辺部の整備はされていない印象で、正直どこのことを指しているのか分からなかった。

urato_38_9352では浦戸城の三本堀切を見に行ってみよう。左側は斜面となっており、城の西側から詰の段方面へ行くにはこの尾根道を通るしかなく、その尾根道上に堀切が築かれ侵入を妨げていた、という構造だ。

urato_39_9356遊歩道の左側に凸凹した地形が展開されている。今歩いている遊歩道は当時は無く、左側の凸凹を通る必要があった(平時は橋などが架けられていたことだろう)。

urato_40_9357浦戸城跡 西部の山中に残る、連続堀切。

urato_41_9358堀切。随分と埋まってしまっているが、かつてはV字型に深く刻まれた堀切だったことが想像される。「薬研堀」(やげんぼり)。

urato_42_9360堀切。

urato_43_9361遊歩道側からは、同時に三本を見える角度を取るのはなかなか難しかった。しかし確かに、詰の段に向かう尾根道上に堀切が築かれていたことは体感できた。数少ない浦戸城跡の現存遺構。必見。

urato_44_9365浦戸城は長宗我部元親の最後の居城となった。死去したのは上洛中の伏見屋敷でだが、墓はここ浦戸に建っている。こちらが長宗我部元親 墓所。

urato_45_9366立派な石碑も建つ。

urato_46_9368長宗我部元親公墓 説明板。慶長四年(1599)、伏見で病没、享年61。遺骨は伏見で火葬後、ここ土佐の天甫寺山に葬られたという(異説あり)。当時 元親は家康との交流もあったというが、病没の翌年に起きた関ヶ原合戦では家督を継いだ四男の盛親が西軍に付いたことで、長宗我部氏そのものが改易となってしまう。もしあと1年、元親が長生きしていれば、戦国大名 長宗我部氏の運命は全く異なったものとなっていたかもしれない。

urato_47_9369墓所に通じる道すがらに建つ塚。

urato_48_9370兵士の塚 説明板。浦戸一揆(長宗我部氏改易後に土佐に入国しようとした山内氏に対する、旧臣たちの反乱)の犠牲者を弔うもの、だとか。

urato_49_9371では兵士の塚の脇の石段を上がって参拝しよう。

urato_50_9372かなり立派な石垣が築かれている。墓所はこの上。

urato_51_9375階段を上がった先には小さな広場と、古い宝篋印塔が建つ。

urato_52_9373史蹟 長宗我部元親墓。

urato_53_9374県指定史跡 長宗我部元親墓。

urato_54_9377宝篋印塔の前には、元親公十一世後裔 建立、とある。元親の息子らは討死、暗殺、処刑などとなったが、主に子女らが大坂の役後も伊達家に仕えるなどして生き延びている。

urato_55_9378長宗我部元親公墓の宝篋印塔。

urato_56_9401最後に、若き日の長宗我部元親が初陣に際し、戦勝祈願をした地と伝わる「若宮八幡宮」へ。

urato_57_9381目的は、その若宮八幡宮の参道沿いに建つ、元親公の銅像。左奥の方に見えている。

urato_58_9382若宮八幡宮側から歩いていくと反対側についてしまう。槍を抱えた元親公立像。

urato_59_9383手を前に差し出しているポーズ。このポーズには意味がある、が、この角度からは分からない。

urato_60_9385像の下には、大きく四国を形どった絵が描かれている。元親公は四国をその手にしようとしているポーズとなっている。

urato_61_9386長宗我部元親公銅像 説明板。平成11年建立。永禄三年 初陣となる元親は、本山氏の長浜城攻めに際し、先ほどの若宮八幡宮の社頭に陣を張ったという。

urato_62_9388少し角度を付けて、四国の姿をよく見えるように。

urato_65_9396四国の図には、それぞれの地に居た有力国人たちの名が書かれている。吉良氏、本山氏、安芸氏、香宗我部氏。いずれも長宗我部氏の軍門に下り、重要な家臣となっている。

urato_64_9392横の角度から見ると、四国の姿とそれを手で掴もうとしている雰囲気がよく分かる。

urato_63_9389初陣像由来記。書いてある内容よりも、この何とも言えない変色具合が気になる。

urato_66_9393元親公像をじっくり見る。視線を合わせる位置から。馬上の元親公から斬り付けられた時は最期にこんなシーンを見るのだろうか。

urato_67_9394武将銅像は肖像画と違って後ろ側もじっくり見て楽しもう。背中に刀を背負っているようにも見えてしまうが、これは真下から見ているから。

urato_68_9382-2長い槍を持っている方から。背筋をしっかり伸ばした、カッコいい立ち姿。

urato_69_9383-2あいや、待たれい!

urato_70_9387やはり正面からの立ち姿が一番定番、か。今度は晴れた日に再訪したい!

urato_71_9395近くにあった「戸次川の戦い」説明パネル。秀吉の軍門に下った後、悪名高き軍監 仙石秀久の元で無謀な作戦に出て信親以下 重要な一族家臣らが軒並み討死した、長宗我部氏の「終わりの始まり」となった戦い。土佐の国の命運を分かったこの戦をしる人はあまりに少ない、と書かれている。

遺構は少ないものの、土佐の歴史では欠かすことが出来ない浦戸城跡。高知城、岡豊城とセットで是非。

訪問時期:2017年5月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF14mm
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