中津城 [4/4] 搦手の守りとして巨大櫓門を備えた西門跡へ。

中津城 訪問記 其の四。

[前回までの訪問記 概要]
中津城跡は本丸の半分は駐車場、半分は中津大神宮を中心とした神社群の境内となっている。参拝を済ませ模擬天守へ。本丸外周を一周して現存する本丸水堀・石垣を見て回る。水御門跡、大手門跡を見た後、城下に残る外濠土塁「おかこい山」の跡を散策する。同じく城下に残る城戸口跡を見て回ろう。

訪問時期:2017年1月
中津城 訪問記 − 其の一


<訪問記>

nakatsu-103_3329中津城の外濠土塁(おかこい山)に計6箇所築かれていた城戸口。城戸口そのものは残らないが、その跡地には石垣や土塁跡が一部残っている。幾つか見に行ってみよう。まずは西側の城戸口だった「広津口」へ。先程の自性寺の少し北に位置していた。

nakatsu-104_3324広津口には外濠に橋が掛けられ、その周囲の土塁には石垣が築かれていたようだ。その土塁と石垣の一部が今も橋の脇に残る。

nakatsu-105_3328広津口 石垣とおかこい山土塁。先ほど見た自性寺の土塁と同じで、残っているのはちょうどここまでのようだ。元外濠跡がめちゃくちゃ細い水路となって残る。自性寺などの寺は、有事の際の陣営となるようわざわざ此処に配置されたとのこと.

nakatsu-106_3330広津口 全景。

nakatsu-107_3331広津口を出たところは、南北に続く「外馬場」となる。総曲輪(惣構)の西外側は鉄砲矢場・兵式調練場・外馬場など軍事訓練を行う場所だったようだ。

nakatsu-108_3336続いて南の「金谷口」へ。こちらにも有事の際に備え六所宮や明光院などが配置されていたようだが現在は失われている。

nakatsu-109_3340金谷口跡。線路の高架がある場所が当時の外濠跡、トンネルあたりが金谷口だろう。右手前には「おかこい山」も残る。おかこい山がここにあるということは、おかこい山土塁が線路になったわけではなく、その外側の外濠を埋め立ててJR高架線路にしたようだ。

nakatsu-110_3338金谷口のおかこい山跡。此処にも石垣が見える。

nakatsu-111_3341金谷口のおかこい山 説明板。見えている場所だけでなく、更に自性寺の方まで約130m残っているという。また外濠を埋めて線路を作る際に堀底から多数の「馬つなぎ石」が出土したと伝えられ、その一つが近くに展示されているという。

nakatsu-112_3339川原石を割った「半割玉石」を使った土塀石積が付近に一部残るという。後ほど見に行ってみよう。

nakatsu-113_3342金谷口と金谷武家屋敷跡 説明板。各 城戸口には番所が置かれ、冠木門が設置されていたという。金谷口の外側には武家屋敷があったが、城外ということで上級武士ではなく扶持人屋敷・組屋敷だった。また説明板左下の図を見ると、自性寺の墓地から見たおかこい山は、自性寺南側あたりはやはりそのまま線路になったようだ。途中で外濠と土塁は折れ曲がっていたが、線路は折り曲げられないので、途中から外濠を埋め立てた場所が線路にされている。

nakatsu-114_3344外濠跡から出土したと伝わる「馬つなぎ石」の一つ。金谷口出てすぐの銭湯前に置いてある。

nakatsu-115_3345古絵図にも残る、金谷口入った当たりの折れ曲げられた道。

nakatsu-117a_3357続いて北西部の城戸口、小倉口へ。ここはかつて欄干のある太鼓橋がかかっていたようだが、今は外濠自体が狭められ水路状態になっていることもあり、小さなコンクリートの橋が架かるだけ。

nakatsu-118a_3360小倉口跡。小倉橋と書いてある。巨大な外濠も大半が埋め立てられ、往時の雰囲気はほぼ失われた。

nakatsu-119a_3358外濠跡の水路。

nakatsu-120a_3347小倉口から北へ向かうと、三之丸への入口となる「西門」跡が残る。桝形を構成していた石垣の一部分が巨大な石垣として残っている。櫓門は桝形の三之丸側、右奥の道を塞ぐように右向きに建っていた。

nakatsu-121a_3350西門 説明板。桝形を形成していた石垣の内、向かって左側と正面が残るようだ。大手門と同じ櫓門が築かれた巨大城門で、その外側には広く掘られた外濠が流れていた。明治二年、廃城を待たずして焼失したという。

nakatsu-122a_3352外濠は今は埋められ湿地のようになっている。かつては外濠だったと思われる場所から、西門の桝形石垣を見る。かなり巨大だ。

nakatsu-123a_3353西門石垣。石垣の上には多聞櫓が巡らされていたようだ。外濠を越えた先の町家から見ると、中津城の威厳を感じられただろう。

nakatsu-124a_3354西門跡とその外側にあった外濠跡。家が建っているあたりまでが外濠だったか。今は埋め立てられ細い水路となっている。

nakatsu-125a_3355桝形の向かって右側の石垣は、失われ住宅となっていたが、よく見ると住宅の土台として一部使われていた。

nakatsu-126_3299最後に、中津城下に残る、中津城ゆかりの寺を訪れよう。黒田氏時代の天正期に起こった宇都宮鎮房謀殺事件の際に、宇都宮氏の残党らが籠もって戦い、全員討死したと伝わる合元寺。赤壁で有名だ。

nakatsu-126a_3308合元寺 説明板。戦いの際に宇都宮氏残党の血で壁が赤く染まり、その後 何度白く塗り直しても血が滲み出てくるので、赤く塗ってしまった— という言い伝えが残る。赤壁寺とも。

nakatsu-127_3301赤壁 合元寺。と石碑に書かれている。

nakatsu-128_3305一面 赤と黒の壁に囲まれた寺。異様だ。

nakatsu-130_3309合元寺 境内へ。中の建物も一部の壁は赤く塗られている。

nakatsu-131_3310境内にある 手書きの由来書。合元寺は元々 黒田官兵衛が姫路から中津へ移封した際に姫路から一緒にやってきた空誉上人が開いた寺だったが、元々 当地を所領していた宇都宮鎮房を謀殺した際にその家臣たちの詰所となっていたため、前述の惨劇の舞台となった。その「姫路から来た」という空誉上人は実は宇都宮鎮房の庶子(本妻以外から生まれた子)とも言われ、後に後事を恐れた黒田長政によって福岡城で処刑された、とある。なお福岡城近くの空誉上人ゆかりの地の説明板には、大坂の陣の際に豊臣方に付いた元家臣 後藤又兵衛の説得のために黒田家から派遣されたのが空誉上人で、その説得に失敗したため、豊臣方との内通疑義を掛けられた黒田家が潔白を証明するために処刑された、とあった。

nakatsu-132_3311合元寺。奥の建物も赤く染められていた。

黒くそびえる模擬天守が有名な中津城。しかし見どころはそこだけではなく、黒田官兵衛や細川忠興らが築いた巨大石垣や水濠、城下に残る城門跡や「おかこい山」など多数残る。ぜひ時間を掛けて街を歩き、かつての中津城の巨大さを感じてみよう。

訪問時期:2017年1月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF14mm
– – – – – – – –
ブログ人気投票参加中. いつも投票アリガトウ(^-^)

投票するのも、順位を見るのも、上↑のアイコンを押してね!
ページの一番上に戻る

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中