中津城 [2/4] 本丸西面に残る、古代山城の加工石を流用した黒田期石垣は必見。

中津城 訪問記 其の二。

[前回までの訪問記 概要]
中津城跡へ。本丸の半分は駐車場、半分は中津大神宮を中心とした神社群の境内となっている。参拝を済ませて黒い大天守へ。元々あったかのような堂々とした佇まいだが昭和の模擬天守。本丸外周を一周して現存する本丸水堀・石垣を見て回ろう。

訪問時期:2017年1月
中津城 訪問記 − 其の一


<訪問記>

nakatsu-35_3440本丸南側の大鳥居前へ。明治の廃城後、土塁と石垣を壊し、堀を埋めて、道を造ったとのこと。確かに石垣の端がしっかり固められておらず、とりあえず壊して道通しました的な雰囲気になっている。

nakatsu-36_3442本丸南東部、椎ノ木御門前の二層櫓台へ。こちらも大きく隅部が壊されている。

nakatsu-37_3446石垣の内側へ。かつては内側は土塁だったそうだが、復元にあたって強度上の問題があり内側も敢えて石垣で復興したとのこと。

nakatsu-38_3445このあたりは中津城築城前は二重の堀に囲まれた中世の館跡があったという。そして黒田氏による築城後も寺院が建てられていたが、細川氏による改修工事によって、寺院は二之丸へ移築、本丸内の寺院は(他の城の傾向同様)無くなった。発掘現場は語る。

nakatsu-39_3447本丸にはかつて三ヶ所の出入口があった。南東の椎ノ木御門、南西の水手御門、そして西の川側へ出る鉄御門。ここは椎ノ木御門跡。石垣だけが残り、御門の代わりにいまは神社の石鳥居が建っている。

nakatsu-40_3448扇形の石垣 説明板。椎ノ木御門から本丸へ入ると、右へ左へ折り曲げる「食い違い虎口」を形成するため、最も本丸側には「扇形にカーブした」石垣が築かれており、それは古絵図にも多く描かれている。中津城を特徴づける構造物の一つだが、これも無残に破壊され跡形もない。1600年代前半には築かれていたこの扇形の石垣は、幕末期には通行の便利さを取るためか、扇形の左右に穴が開けられ埋門的に奥へ抜けられるような構造になっていたようだ。ではその扇形の石垣の痕跡を見てみよう。

nakatsu-41_3449椎ノ木御門入ってすぐ右側の石垣の断片。この右側の通路が、扇形の石垣に幕末期に明けられた通路の一つだったのでは、とされている。

nakatsu-42_3450扇形の石垣があった場所全景。忠魂碑の巨大な土台があり、全くわからない。古絵図を見ながら想像してみる ↓

nakatsu-42_3450s2.jpgこんな感じで扇形の石垣が築かれていたのだろうか。薄い赤の矢印が、当初の通行ルート。濃い赤の矢印が幕末期に石垣に通路が付けられた後の通行ルート。

nakatsu-43_3453椎ノ木御門跡を本丸の外側から。今からここから見ると本丸内部が丸見えだが、当時は正面に壁があり、登城者は門をまず右へ曲がり、右側に建っていた「椎ノ木御門」を通り、今度は忠魂碑あたりに建っていた扇形の石垣に沿って左に折れ曲がらされ、やっと本丸へ入れた。左右の石垣の上にはそれぞれ見張りのための櫓が建っていた。

nakatsu-44_3452椎ノ木御門跡前に建つ、当時の様子を示した説明図。分かりやすい。北は右。今は「御本丸」左下のあたり。見づらいが小さく赤で「現在地」と書いてある。

nakatsu-45_3455椎ノ木御門の外側は細長い二之丸だった。二之丸から、本丸南側の三之丸へは、「鉄御門」という門で繋がっていたようだ。今はまったく失われ、カーブの道が当時の雰囲気をちょっとだけ残しているのみ。よーく見ると、門の礎石が一つだけ、コンクリートの道に埋もれてしまうかのようにヒッソリと残されている。写真左の「黒御門跡」の看板の足元に注目。礎石の大きさ、古絵図から、ここにも左右の石垣(これも失われている)にまたがるような巨大な櫓門形式だったようだ。

nakatsu-46_3457ではまず二之丸を散策しよう。二之丸からは本丸北側の水堀と、模擬天守がよく見える。まずは本丸東側の石垣に沿って北上。かなりの巨石が打込み接ぎで積み上げられている。

nakatsu-47_3459しばらく進むと本丸の石垣が内側に折れ曲がり、その空いたスペースに水堀が見えてきた。その奥には本丸石垣と、その上に築かれた巨大な五重の黒い模擬天守。なお中津城には五重もの巨大な櫓は無かったようだ(古絵図ベース)。ただし黒田氏時代の姿は史料が無く分からないとのこと。

nakatsu-48_3460薬研堀 説明板。目の前の水堀は、何と V 型をした「薬研堀」だという。奥の川とつながっており、潮の満ち引きで水位が変わるそうだ。本丸南側にあった最初に見た水堀も実は箱堀(凹型)ではなく、傾斜を付けられているという。平城の近代城郭で、薬研堀は、珍しい印象。

nakatsu-49_3461では、勝手に「日本三大カッコいい模擬天守」の一つと挙げている 中津城 模擬天守をじっくり見ていこう。本丸内側から見た姿もなかなかのものだったが、この二之丸側から堀越しに見る姿が最もかっこよく、また有名。

nakatsu-50_3462中津城 模擬天守。模擬天守といえば犬山城や大垣城などが見本となるケースは多いが、これは何と山口県の萩城天守(古写真)をベースに築かれたとのこと。天守台から一層目が飛び出している「張出造り」と呼ばれる構造を採用。熊本城の大天守も同じスタイル。ちなみに萩城天守の古写真はコチラ(Wikipedia)。萩城天守は白漆喰だが、中津城は櫓が黒い下見板張りデザインだったので、それを踏襲している。

nakatsu-51_3463手前の隅櫓も模擬櫓。しかし、元々 江戸時代からずっとこうだったかのような自然な姿。すばらしい。

nakatsu-52_3465真横から。The望楼型といった、二層までは大きく、三層から上がスリムなスタイル。

nakatsu-53_3466本丸北東端から見る模擬天守。本丸石垣は黒田時代のものと、細川時代の拡張工事によるものとに別れている。模擬天守が乗るあたりは細川時代のものとのこと。

nakatsu-54_3471少し構図を変えて。左端の石垣の先端あたりが先程出てきた椎ノ木御門跡。本丸の大きさがよく分かる。

nakatsu-55_3476もう少し近寄ってみる。スゴイ迫力だ。

nakatsu-56_3477本丸の北側へ。このあたりは古絵図には「御花畑」と書かれている。今は均され広場になっている。立てかけられている看板は、最初に中津城を築城した黒田氏にあやかり、官兵衛時代の重臣たちを表す「黒田二十四騎」の名前。

nakatsu-57_3478本丸北側の石垣には注目ポイントがある。黒田本丸の石垣と細川時代の石垣 説明板。川のある右側の石垣が黒田時代の天正期の石垣、天守のある左側の石垣が細川時代、という。豊前一国の大名となった細川氏は、元和の一国一城令で小倉城・中津城のいずれかを手放さなければならなくなるも、交渉の末「中津城は忠興の隠居城」として認められ、小倉と中津の二城を持つ国となった。その際、隠居城という性格上、本丸と二之丸の間の堀を埋め、天守台を周囲と同じ高さに下げるよう命じた— と記載されている。目の前のこの堀のことだと思うが、それ以降ずっとここは埋められていたのだろうか?中津城の天守台とはどのことを指すのだろうか?(古絵図には天守が描かれたものがない、そもそもあったのかも不明とのこと)。書いた人に詳しく話を聞いてみたい説明板だ。

nakatsu-58_3479奥に見える、石垣を継いだ跡が、先程の説明板にあった「黒田期と細川期の石垣の境目」だ。もうちょっと近くに寄ってみよう。ちなみに今右前に築かれている「石垣に近寄れる出っ張り」は当然当時は無く(あったら堀を乗り越えられてしまう)観光用に築かれたもの。

nakatsu-59_3484右側の整然とした石垣が、天正期の黒田官兵衛による石垣。左側の、上にかぶさるように築かれた大小入り混じった石垣が、慶長期の細川忠興による石垣。同じ石垣でも全く顔が異なる。この左側は、官兵衛時代はどのような姿をしていたのだろうか。

nakatsu-60_3483北側には、2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」ブームに乗って築かれた、官兵衛とその正室 光(てる)の石像が並んでいる。

nakatsu-61_3485二之丸の北辺あたりから見渡した大天守。石垣の端っこに巨大な櫓がチョコンと乗っているようで、ちょっとバランスが悪い。当時このあたりは「御花畑」、模擬天守の左側あたりは「馬場」「御厩」だったようだ。

nakatsu-62_3487このあたりから川沿いに降りる事ができる。本丸の西側は川に面しており、そちらは黒田氏築城時代の古い本丸の形そのままのため、古い石垣がそのまま見えるという。行ってみよう。

nakatsu-63_3489先程の黒田氏石垣に続く緑色の古い石垣。天正期の石垣にしては、比較的整形がなされており、そこそこの巨石で、とても立派な石垣だ。その理由は後述。

nakatsu-64_3490黒田氏時代の本丸石垣、本丸北西端。表面も磨かれたような、正方形の石材が多い。花崗岩。

nakatsu-65_3491微妙に折り曲げられた場所。天正時代とはいえ、ちゃんと隅部を整え算木積みも見受けられる。角は丸いがかなりキレイに整形されている。

nakatsu-66_3492古代山城の石垣と鉄門跡 説明板。何とこの川上に位置する古代山城「唐原山城(唐原神籠石)」の石垣石を持ち出してきて再利用したという。古代山城は7世紀頃の飛鳥時代に天智天皇らが主導して西日本一帯に築かれた、唐や新羅からの侵略に備えた巨石を持つ山城群。当時の日本と同盟を結んでいた百済国の技術者が来て技術供与して築いたともされるが、以降その技術は失われ、戦国時代まで本格的な石垣を持つ城郭が再び現れなかったのも歴史の妙だ。

※当サイトでは、古代山城は備中国鬼ノ城(岡山県)の訪問記を掲載しています。

nakatsu-67_3493こちらも黒田時代の古代山城の石材を使った石垣。川上にあったので、舟で大量に運び込み、川岸に荷揚げしてそのまま積み上げたのだろう。

nakatsu-68_3494その間の凹んだ部分は先の説明板によると細川時代の石垣とのこと。確かに全く様子が異なる。そしてこの隅部はもっと異様で稚拙な石積となっているが、ここは廃城まで「鉄御門」と呼ばれる一種の埋門があった場所。廃城後に埋めた際に、技術を持たない人間が割った石をそのまま埋めただけの模様。

nakatsu-69_3496本丸西側の石垣全景。手前の石垣の上にはかつて本丸最大の三重櫓が建っていたという。奥の張り出し部と手前の櫓台の間は黒田氏時代は石垣が無かった、ということは、本丸はここで南北に分断されていたのだろうか? 黒田氏時代の城の姿を示した古絵図は残らないという。

nakatsu-70_3497川岸から遥かに望む中津城天守。

その三ではここから本丸へ再入城し、本丸南西端の水御門跡を見に行きます。

>> 中津城 [3/4] へ続く。<<

訪問時期:2017年1月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF14mm
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