佐伯城 [1/4] 山上に巨大石垣が迷路のように残る近世城郭跡。

title_bungo-saiki_840x270佐伯城は、関ヶ原合戦後に豊後玖珠(角牟礼城)から佐伯へ移封となった毛利高政により築かれた、山上と山麓に居を構える近世山城。山上の本丸・二ノ丸には天守および城門・櫓群を持ち、山麓には三の丸御殿などを構える近世城郭だが、明治維新の際に三ノ丸御殿の正門と御殿の一部を残して取り壊された。現在は山上に一部改変はあるものの概ね良好な状態で迫力ある巨大石垣が残り、山麓部は前述の三ノ丸櫓門と一部城下町、そして移築された三ノ丸御殿の玄関部分が残る。ちなみに正式な読み方は「さえきじょう」ではなく「さいきじょう」。

<基本データ>
●名称:佐伯城 [さいきじょう] (Wikipedia)
●所在:大分県佐伯市 (地図)
●城主:毛利高政
●築城:慶長十一年 (1606)
●遺構:石垣、三ノ丸櫓門
●情報:続日本百名城 No.194 (一覧)

訪問時期:2017年1月
佐伯城 訪問記 − 其の一


<訪問記>

saeki_01_2354佐伯城めぐりは、三ノ丸御殿の巨大櫓門前の駐車場からスタート。あいにくの大雨だったが、負けずに山上まで上がろう。ちなみに櫓門の右奥に見えている山の上が、本丸・二ノ丸のある場所。

saeki_02_2355まずは三ノ丸御殿のあった場所に残る、巨大櫓門と石垣を見てみよう。巨大な石畳のスロープは当時のものか。山上山麓ともに、佐伯城内には石畳が多く見られる。また当時はスロープの左右は水堀だったが、現在は埋め立てられている。

saeki_03_2356三ノ丸を囲っている石垣の正面部分がしっかりと今も残る。そして御殿があった場所には、巨大な佐伯文化会館が建つ。スロープの幅ぐらいの水堀だったとすれば、幅はかなり狭いが、その分 逆に高さがあるので攻めづらい構成になっていたのだろう。そして地面下にもまだ何m分か石垣がある、ということだ。駐車場側は難しいだろうが、向かって右側は多少でも水堀を復活してほしい。

saeki_04_2357三ノ丸の外周石垣。山麓の斜面を平らにするために手前の低い部分を盛り上げて石垣を積んでいるためか、奥の方は石垣が低くなり、そのまま斜面に接続している。そして角部は尖っておらず、カーブを描いている。山上の石垣でもこのカーブは多く見られる。

saeki_05_2661雨が強くなってきたのでかなり雨粒が写り込んでいるが、気にせず三ノ丸櫓門を見てみよう。

saeki_06_2665櫓門を入ると、中はコンクリートで固められていた。桝形のような形をしているが、当時はどのようになっていたのだろうか。

saeki_07_2672さすがは御殿の正面玄関、櫓門を支える石垣にも、かなりの巨石が積み上げられている。

saeki_08_2351城下町さいき散策マップ。かつての城下町は、現在は先程の三ノ丸櫓門の前の道に沿って、多く残っている。そしてその先端部(図の一番右端上)には、毛利家の菩提寺 養賢寺があり、今も初代藩主 毛利高政 以下 毛利家の墓所が建ち並んでいるという。山城に上る前に、少し城下町と菩提寺を訪れてみよう。

saeki_09_2363まずは毛利家菩提寺 養賢寺へ。こちらが山門。

saeki_10_2364龍鼎山 養賢寺 説明板。毛利高政が佐伯入郡時に創建したという。墓所は裏手一段高いところにあるようだ。

saeki_11_2365養賢寺 境内。墓地は写真右側を奥へ、本堂を回り込むように進んだ先。

saeki_12_2368毛利家墓所への入口の門。右側が一般の墓地、左側が本堂。本堂を越えたら墓地を見ながら左へ進もう。

saeki_13_2369門の奥の階段の先には、固く閉ざされ堅固な石垣で固められた一角がある。こちらが毛利家墓所。立ち入りは出来ないので、門の外側から拝見させていただこう。

saeki_14_2370毛利家墓所 説明板。慶長期の初代藩主 毛利高政公から、明治まで十二代、毛利家が佐伯二万石を治めた。十二代の間には、結構 養子が居たようだ。

saeki_15_2372雨の毛利家墓所。台座に載せられた巨大な五輪塔が整然と並べられている。写真では見づらいが向かって右奥に建物があり、その中には初代 毛利高政公の霊廟が収められているという。門と建物の間に木が生い茂っており、隙間から少し垣間見えただけだった。

saeki_16_2376では養賢寺から城下町を通りながら三ノ丸の脇にある登城口を目指そう。絶妙に折り曲げられた城下町内。

saeki_17_2384石垣や土塀、山門、生垣などが城下町の風情を出している。地面は整備されているが、コンクリートではなく石畳風にしているので、コチラも良い雰囲気に一役買っている。レトロなポストまでもがいい感じ。

saeki_18_2387安井の井戸。江戸中期、水不足に悩む領民のため、藩医 今泉元甫が私財を投じて掘った三つの井戸の一つという。

saeki_19_2391城下町に残る薬医門。武家屋敷の移築門という。

saeki_20_2392さて城下町を進み、三ノ丸石垣の前まで戻ってきた。ここから山の方へ進むと、山上の佐伯城への登城口となる。入口の櫓風建物(トイレ)の前に、三つも案内板が建っているので順に見てみよう。

saeki_21_2394-2佐伯城 復元図。明治四年の図面を元にしているとのこと。山上に天守が描かれているが、天守は江戸初期に焼失後、再建はされていないので、明治四年の頃には無かった。あくまで武家屋敷等の配置について、ということだろうか。

saeki_22_2395達筆な城山周辺案内図。絵自体はザックリだがシンプルで分かりやすい。現在地をまっすぐ三ノ丸の奥まで行くと、登城ルートが3つに分かれるようだ。

saeki_23_2397山上の在りし日の姿を描いた「鶴屋城(山城)鳥瞰図」。

saeki_24_2400では山上に向かおう。三ノ丸脇を奥へ。

saeki_25_2401途中に建っていた、豊後佐伯城址 説明板。海抜140m。歩いて15分で登れる景勝の地、とある。1606年、慶長十一年に完成した佐伯城だが、僅か11年後には二ノ丸からの出火により天守含め主要建物が焼失、以後 江戸中期の修復まで敢えて修復は行わず、それまでの100年間以上は藩政は山麓の三ノ丸で執り行われたとある。山上は荒れ放題だっただろう。

saeki_26_2404やがて、三叉の登城口までやってきた。まっすぐ進めば当時の登城路と言われる「登城の道」へ。右へ曲がれば後年ハイキング用に整備された「独歩碑の道」。雨なこともあり、登りは楽な独歩碑の道から上がり、下りは天候が回復すれば登城の道から降りてくるルートを取る。独歩碑の道沿いにも曲輪や石垣等が見られることから、両方通ることをオススメ。

saeki_27_2409整備された独歩碑の道。登りやすい。左側は岩盤むき出し、岩山を削って造ったのだろう。石には恵まれているようなので、石垣の素材も手に入れやすかっただろう。

saeki_28_2412独歩碑の道の中腹にある、捨曲輪。今は休憩所になっているが、かつては搦手側(東虎口)を守る拠点だったのだろう。

saeki_29_2413捨曲輪の外周部は低いながらも石積が残る。この下はかなりの斜面なので、この石垣の上に土塀や柵が築かれておれば、なかなかの堅固ぶりだったと思われる。

saeki_30_2416捨曲輪からつづら折れの道を上がると、石垣が見えてくる。手前は近代のものだろうが、奥が当時のものと思われる野面積み。

saeki_31_2418野面積み石垣。この上にはかつて二重櫓があり、その先は東虎口門。搦手とはいえ堅固な様子が伺える。

saeki_32_2420登城路は石垣も周りをぐるっと廻るように築かれている。

saeki_33_2421石段をあがって、段々と石垣に近くなってきた。城門跡らしき石垣の切れ目へ。

saeki_34_2423石畳と左右の石垣に囲まれたこの場所が、佐伯城 東虎口跡。石垣の突き当りに門が建っていた。右側の石垣の上には番所、左側は土塀だったがその先に本丸外曲輪二重櫓があった。ここも立派な石畳となっている。結構な角度の道で、しかも雨で濡れていることから、かなり滑って危ない。

>> 佐伯城 [2/4] へ続く。<<

訪問時期:2017年1月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF14mm
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