角牟礼城 [1/3] 島津の猛攻にも耐えた豊前豊後の境目の城。

角牟礼城 (つのむれじょう) は古くより豊前豊後の境目の城として、地元豪族 玖珠郡衆 (くすぐんしゅう) により守られていた、標高577mの山頂にある断崖に囲まれた天然の要害を持つ大分県西部の中世山城。島津氏の侵攻をも妨げた大友氏側の堅固な山城だったが、秀吉により大友氏は排除され毛利高政が入城、石垣を持つ近世城郭に大改修した。関ヶ原後 毛利高政は佐伯城へ移り、伊予水軍だった来島氏の所領となる。しかし来島氏は小大名で城を持つことが許されず山麓の陣屋を拠点とし、角牟礼城は廃城となった。廃城後 城跡は放置され一部破城も行われたが、巨大な石垣と虎口跡、城門跡や土塁などの遺構が良好に残る。

<基本データ>
●名称:角牟礼城 (Wikipedia)
●所在:大分県玖珠郡 (地図)
●城主:玖珠郡衆、毛利高政
●築城:13世紀頃 / 慶長期
●遺構:石垣、土塁、竪堀、虎口

訪問時期:2017年1月
角牟礼城 訪問記 − 其の一


<訪問記>

tsunomure_01_1996いざ角牟礼城へ!ここから、城跡へ入る。角っこに看板あり。

tsunomure_02_1997国指定史跡 角牟礼城跡。そしてかつて何かがあった、石で作られた何かの跡。

tsunomure_03_1993しばらく車道を登る。カーブの内側に巨石がある場所へ。見づらいが下に説明板がある。

tsunomure_04_1994中平古戦場跡。天正15年、島津軍が角牟礼城(当時は大友側 玖珠郡衆)へ攻め寄せた際、大石を楯に取り、押し寄せる島津兵に散々に射掛け、退かせたと記載した古文書が残るという。その大石が恐らくこれ。

tsunomure_05_1848やがて車道は平場へ到達する。入口は左右を石積で囲まれた場所。

tsunomure_06_1992三ノ丸が駐車場となっている。崖側には見事な石積も残る。ゆっくり見ていこう。

tsunomure_07_1843三ノ丸駐車場に建つ「角牟礼城跡」説明板。かつては豊前(大分県北部)からの侵入を防ぐための、豊後(大分県中南部)の境目の城。歴史的には、天正14-15年の島津・大友が九州の覇権を掛けて総力戦を繰り広げた一連の「豊薩合戦」で、多くの大友側の城が落ちている中、島津の猛攻から守り抜いた城の一つとして有名(他には国崩で有名な臼杵城、ご存知 天空の城 岡城なども落城しなかった)。島津が秀吉に臣従した後、豊後の大友氏は秀吉によって改易され、代わって毛利高政が入城。彼によって角牟礼城は石垣や虎口構造を持つ近代的な城郭へと大改修される。関ヶ原の後、毛利高政は佐伯城主へ栄転し、伊予水軍だった来島氏が入部するも、家格から城持ちを許されず、山麓に陣屋を築き、山上の角牟礼城は廃城となった。以来 放置され遺構は埋もれるが、平成の発掘調査により様々な当時の遺構が発掘保存された。

tsunomure_08_1844案内板の脇に小さく掲載されている縄張図。今いるのは左下の三ノ丸虎口。二ノ丸および本丸は、ここからもう一段上の区画になるようだ。三ノ丸側以外は地図を見ても分かる通り急峻な斜面に守られている。

tsunomure_09_1845もう一つ シンプルな案内板。角牟礼城には車道で三ノ丸駐車場まで来るルートの他に、山麓から歩いて上がってくるルートが2つ、存在するようだ。

tsunomure_11_1849三ノ丸内部の様子。外周部は石垣の城壁で囲まれているが、内部は巨石がゴロゴロしており、往年はどういう姿だったのか、ちと想像できない状態になっている。

tsunomure_12_1851では三ノ丸の崖側に築かれた石垣の城壁を見てみよう。かつてはこの上を土塀および櫓が覆い、斜面を無理やり上ってくる敵、あるいは山麓の神社側からの登山道を登る敵を攻撃したことだろう。tsunomure_13_1859石垣の上に登る雁木(石段)も美しく残っている。立入禁止というわけでもなさそうなので、上へあがってみよう。

tsunomure_14_18532mほどの幅がある石垣の城壁。多聞櫓的なものが建っていたのだろうか?

tsunomure_15_1854石垣の城壁は三ノ丸の入口の巨石まで続き、巨石に連結するように築かれている。元々 巨石が多い岩山なのだろう。

tsunomure_16_1856隅部の櫓台跡と、その手前の雁木。櫓へ上がる部分はかなり細く狭くなっている。

tsunomure_17_1857櫓台の上から、南の山々と見る。

tsunomure_18_1846では内側の虎口より、城内へと進もう。説明板のところに「フォトスポット」と書かれた看板が掲げられているが、どこがどうフォトスポットなのか分からず。

tsunomure_19_1991三ノ丸出口より、内部を見る。大きく折れ曲がっていて内部全体は見えない仕組み。三ノ丸全体が出丸のような、巨大な枡形虎口のような、そういう印象。ちなみに角牟礼城は慶長期には廃城となってしまうため、城として機能していた毛利氏時代やその前の玖珠郡衆 時代の詳細な図面や記録は無く、ここも遺構から「伝 三ノ丸跡」とされている。

tsunomure_20_1865伝 三ノ丸の外周石垣が見える場所。下から見ると、まさに要塞然とした様相。

tsunomure_21_1868三ノ丸脇の斜面には竪堀がいくつも多重に掘られている。今は埋まり薄くなってはしまっているが、確かに凹凸は見られる。上からでは見づらいので、少しだけ下に降りてみよう。

tsunomure_22_1982竪堀のある斜面から見た三ノ丸外周石垣。この上に更に城壁や櫓が建っていたことを思うと、かなり堅固な様相。というかこの位置に居たら、確実に射られる。

tsunomure_23_1983少し離れて三ノ丸外周全容。この道は山麓の神社側からの登山道の終着点でもあるので、当時もそちらから上がる道があったとすれば、最初に見る城の光景がこれだということになる。

tsunomure_24_1985かつての石段の跡だろうか、あるいは後世の参道跡だろうか。斜面には枯葉に埋もれて石段跡も見られる。

tsunomure_25_1987このあたりは多重に竪堀が掘られ凹凸が激しい地形となっている。個々の竪堀は見づらくなっているが、少し俯瞰して低い視点からみると、その凹凸が見て取れる。当時はもっと凹凸も激しく、文字通り横移動を大きく妨害する設備だったのだろう。

tsunomure_26_1873では城道へ戻り、二ノ丸を目指してあがろう。道は三ノ丸からつづら折れに続く。

tsunomure_27_1874しばらく上がると、突然目の前に現れる巨大な石垣の壁。角牟礼城 最大の見所である二ノ丸下の大石垣の先端部だ。この右側に、長大な石垣が残る。その始まりのところに、城の歴史について書かれた説明板がある。

tsunomure_28_1875難攻不落の角牟礼城 略年表。難攻不落という枕詞は、1587年(天正十五年)の島津軍による豊後侵攻の一環で行われた攻撃と、それの撃退(島津方の猛将 新納武蔵守元忠が天然堅固の城と玖珠郡衆の猛抵抗で攻撃を諦めたとか)によるもの。

tsunomure_29_1879大小様々な石を複雑に組み上げた、角牟礼城の大石垣。苔むし、枯れ葉が積もり、ところどころ孕んで歪んでは居るが、廃城後400年以上が過ぎても未だ健在。

tsunomure_30_1878折れ曲げられた箇所は見事な算木積み。これらの石垣を築いたとされる毛利高政は、毛利姓だが元は尾張出身かつ秀吉直臣で、織豊系技術の穴太積みや算木積みが出来る職人と繋がりがあってもおかしくはない。

tsunomure_30a_1978壮大な二ノ丸下の石垣。すばらしい。二ノ丸に向かって道は石垣に沿って右へ左へ。

>> 角牟礼城 [2/3] へ続く。<<

訪問時期:2017年1月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF14mm
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