美濃金山城 [3/3] 状態よく石垣が残る本丸搦手 東腰曲輪へ。

美濃金山城 訪問記 其の三。

[前回までの訪問記 概要]
美濃金山城 最大の見所である大手桝形跡と本丸 小天守穴蔵跡を散策してきた。本丸外周にはそれらに負けない規模の石垣が残る。其の三では本丸外周の石垣をぐるっと見た後、山麓に残る米蔵跡および移築門を訪れる。

訪問時期:2016年11月
美濃金山城 訪問記 − 其の一


<訪問記>

minokaneyama-73_9222本丸を東側へ出て、搦手 (裏口) 方面へ。こちら側にも良好に石垣が残っているようだ。城があった当時はこちらから見ると天守および小天守が連なる姿を裏側から間近に見られただろう。

minokaneyama-74_9239破城で破壊された石垣の残骸だろうか、石垣からやや離れた場所に積まれた石材。

minokaneyama-75_9223本丸東側の石垣。隅部が見事に壊されている。石垣は隅部が要とされ、破城の際は隅部を象徴的に壊すことで良しとされた、とも言われる。

minokaneyama-76_9240隅部が見事に壊された様が、今もそのまま残っていることが興味深い。破城の際は、隅部だけでなく、横に長い石垣の場合は中央部もV字型に壊すケースもよく見られる(例:名護屋城)。

minokaneyama-77_9224s手前に置かれた石材は、かつては天守台の下に散乱していたものを、石垣がよく見えるように手前に持ってきて並べたのだろうか。

minokaneyama-78_9225奥の一段と高くなっている場所がちょうど天守台の真下にあたる。石垣の様相も少し違うようだ。其の手前は石垣で区画されており、井戸跡と思われる穴も見える。本丸・天守台に隣接して、井戸や何かしらの設備が並んでいたのだろう。その手前(写真を撮っているあたり)には屋敷が建っていた。

minokaneyama-79_9228本丸東面 全景。かつてこの上に、右から左までを覆うように大天守と小天守が連結して建っていた。天守は二重の層塔型と言われる。

minokaneyama-80_9230このあたりにも屋敷が建っていたとのことで、足元を見ると丸い礎石が幾つか今も残っていた。ここは東腰曲輪、にあたる。

minokaneyama-81_9231東腰曲輪 全景。今は天守台から少し離れると木々が生えており、かつてここに屋敷が建っていたとはちょっと想像し難い。

minokaneyama-82_9232東腰曲輪 説明板。搦手の重要施設、本丸の最終防御線。

minokaneyama-83_9233東腰曲輪から東側斜面への降り口には、かつて搦手門が建っていた。今は礎石と僅かな土塁の痕跡が残るのみ。

minokaneyama-84_9235搦手門跡。礎石の説明板が建つ。礎石は看板の右下の石?ちょっと上過ぎる気もする。

minokaneyama-85_9234搦手門礎石 説明板。礎石は丸石。

minokaneyama-86_9236搦手門礎石は、更にその下の半分埋まっている丸い石だろう。上の石はかつてこのあたりにも石垣があった証跡かも知れない。

minokaneyama-87_9237搦手門を降りて先へ進むと、斜面に幾つかの曲輪が設けられている。このまま道に沿って降りていくと(方角的には写真の右後ろ方面になる)かつて森氏の家老だった細野左近が住んでいたと言われる「左近屋敷」と呼ばれる細い曲輪へと到達する。今回は時間の都合で左近屋敷はカット。左近屋敷には石垣も残り、奥は巨大堀切で尾根筋が分断されている。その巨大堀切は、堀底が出丸跡から山麓へ続く車道の一部となっているので、帰りに寄ってみよう。

minokaneyama-88_9238搦手口の先は石段が続く。左近屋敷まで行きたかったが、今回は時間の都合で左近屋敷はカット。ここで折り返す。

minokaneyama-89_9243先程の本丸東側の穴蔵跡を別角度から。一見するとここも大きな桝形虎口のように見えてしまう。

minokaneyama-90_9244そのまま本丸の東南面を通って戻る。低いながらも石垣が残っている。

minokaneyama-91_9245「石段跡」と手書きの看板があった。本丸周囲は3mないし4mの石垣を巡らせ石段以外には本丸に入れないようになっている。とある。

minokaneyama-92_9246どこが石段跡なのか分かりづらい。ただの石垣の折れ曲がり(横矢掛け)のようにも見える。

minokaneyama-93_9247本丸をぐるっと一周してきた。主君・信長の居城 安土城と時期的にほぼ同じ頃に総石垣造りの山城に大改修された金山城。当時はこの荒々しい石垣が高く積み上がり、安土城のような壮観さだったのかもしれない。

minokaneyama-94a_9116では、帰りに先程 上からは訪問を断念した左近屋敷の先にある、尾根を豪快に分断した大堀切跡を訪ねてみよう。車道に沿って降りていけばその場所へたどり着ける。ここが堀切を活用した車道。向かって左側の斜面の上が、左近屋敷跡。

minokaneyama-94b_9117大堀切の説明板も建つ。高さ10m!

minokaneyama-94c_9119反対側から。右上が左近屋敷。これは登れない、渡れない。

minokaneyama-95_9251では下山して、山麓に残る幾つかの遺構を見て回ろう。まずは金山城の山麓北側に残る、米蔵跡。向かって右側の石垣の上部が米蔵跡で、左側は代官所跡とのことだ。ただコンクリートの基礎らしき跡も残っていたので、どこまでが金山城関連の遺構かは定かではない。

minokaneyama-96_9252米蔵跡の高石垣。かなりの高石垣が残る、とのことだが、肝心の高石垣の正面(右側)が竹やぶに埋もれていて、まったく見えない。横から見て想像しよう。

minokaneyama-97_9255巨石を取り込んだ石垣。ここだけ見ると3mほどに見えるが、右奥の竹林の中はかなり低くなっており、石垣は7−8mにも及びそうな印象だった。

minokaneyama-98_9257観光案内所と可児市山城連絡協議会のあるビルへ。隣の建物は明治時代の小学校校舎を活用した歴史民俗資料館となっているが、訪問時は耐震工事のため休館中だった (2016.11)。

minokaneyama-99_9256観光案内所で大量の山城パンフを発見。山城整備のため500円を寄付すると冊子も一部分けていただけた。山城ファンは立ち寄り必須。

minokaneyama-100_9262最後に、金山城の城門の一つが移築現存する浄音寺へ。正面の山門がそうだ。

minokaneyama-101_9264浄音寺 説明板。斎藤正義が烏峰城(後の金山城)を築いた際に裏登城口あたりに浄音寺を開き、後にこの地に移されたという。正義公の生前に描かれた等身大画像が重文として残るという。境内には、正義公の五輪塔、そして烏峰城(金山城)の裏城戸門を移築したと伝えられる山門、がある。

minokaneyama-102_9259こちらが、金山城の裏城戸門を移築したと伝わる山門。裏城戸門が、どこの門かは、不明。

minokaneyama-103_9266伝 金山城 裏城戸門 の内側。屋根を四本の柱(本柱と控柱)で支えた、薬医門と呼ばれる形式。

minokaneyama-104_9267その脇にひっそりと佇んでいた五輪塔。説明板等はなかったが、こちらが初代城主・斎藤正義公の五輪塔だろう。

戦国初期に美濃を治めた斎藤氏の一族によって築かれ、信長による美濃攻略後は森長可一族によって総石垣造りの山城へと変貌した美濃金山城。相次ぐ城主や一族の討死の中、最後の城主となった森忠政が加増転封されると、犬山城の増築のために取り壊されることとなった。今もその時の破壊の痕が色濃く残る。

訪問時期:2016年11月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF14mm
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