亀山城 (三河国) : 奥平氏が国人領主だった頃の本拠地の城。

亀山城 (三河国) は、三河の国人領主だった奥平氏 (おくだいら) の本拠地として築かれた中世山城。土塁・切岸・堀切などがよく残り、主郭部周辺は見やすく整備されている。城主の奥平氏は、今川氏や武田氏など近隣の戦国大名に仕えていたが、天正元年 (1573) 奥平貞能・貞昌 (後の信昌) の頃に徳川氏の家臣となり、長篠城で武田氏を破る(長篠・設楽原の戦い)など活躍、出世を果たしていくこととなる。

<基本データ>
●名称:三河国 亀山城 (Wikipedia)
●所在:愛知県新城市 (地図)
●城主:奥平貞俊 〜 貞昌
●築城:応永三十一年 (1424)
●遺構:土塁、堀切、虎口、曲輪

訪問時期:2016年12月


<訪問記>

mikawa_kameyama-01_9701s亀山城跡を街道から見上げる。奥の四角いパネルが4つ並んでいるところが城跡、だが、訪問時は運悪く工事中で下から見上げる場所に到達できず。入口に説明板があるのでそこまで。なお城への道は山の裏側(大手口)から。

mikawa_kameyama-02_9700山麓街道沿いにある 亀山城址 説明板。15世紀初頭から16世紀後半まで、奥平氏の本拠地として使用された。江戸時代になっても作手藩の政庁として使われたようだが、やがて一国一城令の元和期に廃城となったようだ。今も山上には中世山城らしい土ベースの複雑な構造が残るという。

mikawa_kameyama-03_9703正面の道が工事中だったので、裏側へ。駐車場に車を止めてしばらく歩くと、山中に入る道を発見。ここから入城。しかしこのもう少し奥(左側)に「大手口」があるので、そちらから入ればよかった。

mikawa_kameyama-04_9706山中へはいると、早速 巨大な切岸と削平地が現れる。かなりの規模だ。この上は「東曲輪」にあたる。縄張図は主郭の説明板に掲載されているので後ほど。

mikawa_kameyama-05_9708先程の切岸の上へ。奥のこれまた巨大な切岸の上は主郭にあたる。

mikawa_kameyama-06_9710先程の最初の切岸の上は草むら。外周は土塁が残る。小さく写っている標柱には「東曲輪」と書いてある。

mikawa_kameyama-07_9712東曲輪の奥は、虎口状になっていて、道も整備されていた。傍らには「大手址」という標柱。ここから入ればよかった。最後はここから出よう。道は折れ曲がっており、今は土塁も削れているが当時はしっかり形成され門でも設置されれば見通しが悪い道となる。右側は番所的な場所か。

mikawa_kameyama-08_9714主郭(右の切岸の上)とその外周に掘られた堀底道。

mikawa_kameyama-09_9715では主郭方面へ向かってみよう。奥に二ノ丸へと通じる虎口が見える。

mikawa_kameyama-10_9717いかにも門がありましたという土塁の切れ目。ここまでは木々が生い茂った森状態だったが、此処から先は整備され城跡公園と化している。

mikawa_kameyama-11_9720二ノ丸へ。主郭へ向かうにはこの二ノ丸を通らねばならない構造。

mikawa_kameyama-12_9719二ノ丸の外周は土塁で囲まれていたようだ。今はかなり薄くなっているがかなりの分厚さを誇る。

mikawa_kameyama-13_9723二ノ丸全景。左側に奥へ通じる道が見える。二ノ丸の外周を通る堀底道へと通じているようだ。当時は先程入ってきた虎口ではなく、ここから入るルートだったのかも知れない。

mikawa_kameyama-14_9721では二ノ丸中央に設けられた、主郭への入口へ。

mikawa_kameyama-15_9724二ノ丸から主郭へ。先程下から見た「亀 山 城 址」の巨大看板が見える。

mikawa_kameyama-16_9729街道の断崖側にも土塁が巡らされている。当時はこの上に看板のような感じで柵か塀が設けられていたことだろう。

mikawa_kameyama-17_9731主郭 土塁の上から、街道側を見下ろす。結構な高さだ。

mikawa_kameyama-18_9725主郭外周部の土塁。分厚く、また高い。主郭は結構広いのだが、その周りをぐるっと囲んでいる。

mikawa_kameyama-19_9735主郭中央部には、城跡碑と、説明板が建ち並ぶ。城跡碑は「愛知縣」と彫られている。

mikawa_kameyama-20_9737亀山城 由来記。奥平氏は元は上野国 (現在の群馬県) 出身で、1370年代に奥平貞俊がここ三河国 作手へ来て、川尻城・亀山城を築く。初代 貞俊から五代 貞能まで166年間ここ作手を拠点とし、天正期に織田・徳川に仕えて長篠城へ移り、あの長篠の戦いの当事者となる。亀山城はその後、江戸時代になって信昌の四男 松平忠明が作手藩17000石として入城、復活した。

mikawa_kameyama-21_9739亀山城址の図。山頂部に土塁で囲まれた巨大な主郭を配置、その外周にも土塁で守られた曲輪群を配した、典型的な中世山城だ。

mikawa_kameyama-22_9732主郭 背後の土塁。しっかり残っている。城址公園としての整備も行き届いている。

mikawa_kameyama-23_9733主郭 西側の虎口。先程入ってきた二ノ丸側の虎口よりも土塁の残りが良いようだ。

mikawa_kameyama-24_9744主郭 西虎口から見た主郭全景。

mikawa_kameyama-25_9748主郭土塁上から見下ろす主郭の様子。左下の部分がやや盛り上がっているのが分かる。かつて建物が建っていた土台だろうか。

mikawa_kameyama-26_9751そして西虎口。

mikawa_kameyama-27_9752主郭 西虎口。出た先は馬出のような西曲輪。

mikawa_kameyama-28_9754主郭 西虎口を外側から。標柱には土橋跡と書いてある。今居る場所はかつては深い堀切があり、そこから西曲輪へ土橋が伸びていた、ようだ。今は堀切もほぼ埋もれ、土橋がわかりづらくなっている。

mikawa_kameyama-30_9759主郭 西虎口をやや離れて。道がある場所が土橋跡、その手前、切岸の下側は堀切でかつてはもっと深く掘り込まれていたのだろう。

mikawa_kameyama-29_9756その堀切跡は主郭北の断崖方面へと続く。この斜面を無理矢理登って攻め込むのは難しい。

mikawa_kameyama-31_9761西虎口から更に西側へ向かってみよう。左右に土塁が盛られ、まっすぐ進めないように道が折り曲げられている。当時は更に塀や門などが配置されていたことだろう。

mikawa_kameyama-32_9763更に進む。西曲輪の一段下にも土塁を持つ腰曲輪があるのが分かる。

mikawa_kameyama-33_9764主郭方面を見返す。迷路のように土塁・切岸が盛られている事がわかる。

mikawa_kameyama-34_9767更に降りて腰曲輪あたりから見返すと、先ほどとはまた違う雰囲気に。巨大立体迷路。

mikawa_kameyama-35_9768腰曲輪より更に下に降りて。主郭西虎口あたりはこの辺からは全く見えない。

mikawa_kameyama-36_9769ではまた戻って、主郭外周の堀底道を通りながら戻ろう。

mikawa_kameyama-37_9771主郭北側の切岸下に展開される堀底道へ。一気に薄暗くなる。左側は主郭の切岸、右側は南曲輪の切岸だ。

mikawa_kameyama-38_9773堀底道から南曲輪方面へ向かう土塁の切れ目、虎口と標柱が立っている。

mikawa_kameyama-39_9775主郭切岸。かなり垂直に切り立っている。

mikawa_kameyama-40_9778最初に見た 大手口 から城内を見返す。今は林だが、当時は左右に柵や城壁、屋敷が並び、正面 切岸の上には櫓が建ち、ここからの眺めはお城の正面入口にふさわしい様相だったのだろう。

訪問時期:2016年12月
撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF14mm
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