石橋城 : 奥平氏初期の一族が謀反を起こした屋敷跡。

石橋城は、家康に仕え最後は中津10万石の大名となった奥平氏 (おくだいら) が、まだ三河の国人領主だった頃の一族が建てた居館跡で、弾正屋敷とも呼ばれる。長篠の戦いで活躍し家康に見出された奥平信昌の祖父にあたる奥平貞勝の時代、天文六年 (1537) に石橋城主 弾正繁昌は謀反を起こし、奥平軍に攻められ落城している。その後 近くの亀山城主だった貞勝より屋敷跡を貰い受け、慈昌院となった。

<基本データ>
●名称:石橋城 (弾正屋敷)
●所在:愛知県新城市 (地図)
●城主:石橋弾正久勝
●築城:16世紀初頭
●遺構:土塁

訪問時期:2016年12月


<訪問記>

ishibashi-jo_01_9675慈昌院 山門。寺の境内がかつての弾正屋敷という。一段盛り上がった高い場所に寺がある。

ishibashi-jo_02_9698山門の前には「石橋城址」の標柱も建つ。

ishibashi-jo_03_9697慈昌院 境内へ。屋敷跡はそのまま寺となり、明確な遺構は外周部に残る土塁 程度、という。

ishibashi-jo_04_9679寺の裏側あたりに、説明板が建っている。

ishibashi-jo_05_9677石橋城址 説明板。奥平二代貞久、三代貞昌、四代貞勝、と出てくる。家康に仕え、長篠の戦いで鳥居強右衛門を送り出し勝利した、あの奥平信昌は六代、貞勝の孫にあたる。奥平氏は土地柄もあり、今川氏、武田氏、徳川氏と戦国期に目まぐるしく主君を変え渡り歩いている。最後は中津十万石の大名に収まった。弾正屋敷の正面には、当時の奥平氏の居城・亀山城跡がある。

ishibashi-jo_06_9683寺の周囲を歩いてみる。外周に沿って一部土塁がなかなかの規模で残っている。

ishibashi-jo_07_9680土塁にそって歩く。土塁の一部に墓が建立されている。かつて弾正屋敷に住み、奥平氏に反旗を翻したため滅ぼされた石橋氏一族の墓という。

ishibashi-jo_08_9688土塁の一部が少し凹んでおり、裏側へ回ることが出来るようだ。墓との位置関係から、このあたり。

ishibashi-jo_09_9686土塁の裏側は鬱蒼としているが、帯曲輪的な場所が今も残っていた。

ishibashi-jo_10_9689こちらは堀切、か。

ishibashi-jo_11_9690左側が主郭の土塁。なかなかの高低差がある。

ishibashi-jo_12_9696道路を隔てた向こう側にも、こちら側と同じような高台の削平地が見える。道路が曲輪跡を分断したのか、堀跡を道路としたのか。

ishibashi-jo_13_9673石橋城跡(慈昌院)のちょうど正面には「つくで手作り村」という道の駅がある。そこにある「歴史の小径」案内板。石橋城址だけでなく、近くの亀山城址、古宮城址などが掲載されている。右端の「甘泉寺」は、あの鳥居強右衛門の墓がある。つくでの歴史が、熱い!

訪問時期:2016年12月

撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF14mm
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