七尾城 [1/5] 能登国守護 畠山氏が築いた総石垣の巨大山城。

七尾城は標高300mの城山山頂部に築かれた、能登国守護 畠山氏に支配拠点だった巨大山城。総石垣造りの山頂部の要害部が7つの尾根に広がり、山麓には城下町が築かれ、一大文化圏を築いていたという。戦国末期になると上杉謙信による能登侵攻が勃発、当時の畠山家当主だった幼君 春王丸が籠城中に病死し、籠城中の重臣の内通により上杉方に降伏開城した。謙信の病没後は織田方の城となり、前田利家に能登一国が与えられる。利家は不便な七尾の山中深くから港に面した小丸山城へと支配拠点を移し、やがて廃城となった。街の主要部が移ったこともあり主要部の遺構はほぼそのまま現存する。野面積みの低い石垣を何段も積み上げ高い城壁にしている様が特徴的。

<基本データ>
●名称:七尾城 (Wikipedia)
●所在:石川県七尾市 (地図)
●城主:畠山氏
●築城:16世紀
●遺構:石垣、土塁、堀切

訪問時期:2016年10月
七尾城 訪問記 −


<訪問記>

七尾城は高い山の上にある。山麓の資料館奥から、かつての大手道を通って徒歩で登城することも出来る(2.4kmの山道)が、本丸直下まで車道が整備されているので、それで一気に登城してしまうことも可能。今回は後工程もあることから本丸直下まで楽々登城。

nanaojo_01-7341こちらが本丸直下の駐車場。大きな説明板があるのでまずは予習しよう。

nanaojo_03-7339戦国の名城・七尾城 説明板。巨大な山一帯に、石垣をふんだんに使った巨大要塞が築かれている図が描かれている(復原想定イラスト)。これだけの要塞を持っていた能登守護 畠山氏だったが、上杉謙信の執拗な攻撃と、重臣遊佐氏の裏切りにより、開城・滅亡した。

nanaojo_04-7340説明板に掲載されている、復原想像イラスト。上杉謙信も力攻めでは落とせなかった要害中の要害。

nanaojo_04a-7338駐車場からの眺望。しかし本丸からはもっと広く高くから七尾の街が見られる。

nanaojo_05-7343こちらが本丸へ向かうルート。これより本丸跡に至る、と大きな標柱がある。正面上が本丸、右から回り込んで上がっていく。ちなみに左側は長屋敷(重臣 長氏の屋敷)跡とされる。

nanaojo_06-7345向かって左側の大堀切と、その奥にある長屋敷。こちらは後ほど行ってみる。

nanaojo_07-7348草ぼうぼうの様相だった大堀切・長屋敷方面とは異なり、さすがは国史跡という整備具合の本丸方面 登城路。

nanaojo_08-7350やがて視界が開けてくる。調度丸と呼ばれる曲輪へ。

nanaojo_09-7351奥の方に七尾城で最も有名な「多段石垣」が見えてきた。いきなりクライマックス。

nanaojo_10-7354多段石垣の前の広場は、調度丸と呼ばれる曲輪跡。武具が多数出土しているそう。

nanaojo_11-7355そして調度丸中央あたりから、遊佐屋敷〜本丸へと通じる多段石垣を正面に捉える。

nanaojo_12-7357かなりの巨木が視界を一部遮ってはいるが、それでもすごい迫力だ。登城路は石垣をぬうように右へ左へ曲がって登っていく。

nanaojo_13-7358多段石垣の前にある、七尾城跡 説明板。石垣は昭和以降の修復もかなり入っていると聞くが、それでも素晴らしい保存状態と言えよう。昭和9年 堂々の国史跡化。

nanaojo_14-7360多段石垣がすごい迫力過ぎて見過ごしがちだが、調度丸(曲輪)内にも、石列や段差などが残る。ここにも多数の建物が建っていた。そしてその奥にそびえる切岸の上が本丸にあたる。当時はあの上にも巨大な屋敷群が建ち並びここから眺められたことだろう。

nanaojo_15-7361では多段石垣を上がっていこう。見る角度によってその印象や見え方が大きく変わっていく多段石垣。当時はこの石垣周囲にどのような城門や城壁が組み合わさっていたのだろうか。想像しながら登っていこう。

nanaojo_16-7362石段は右へ左へ折れ曲がりながら登っていく。

nanaojo_17-7363石垣は丸いままの自然石を積み上げた、いわゆる野面積み。石の大きさもかなりマチマチだ。

nanaojo_18-7388最初の石段をあがるとその前方には高くて長い大石垣。すごい圧倒感だ。石垣の高い城壁は、その強度だけでなく、攻め手に与える精神的なダメージ効果も随分とあったことだろう。

nanaojo_19-7389道は左へ折れる。左側は調度丸まで斜面になっているが、土塀か板塀による城壁が遮っていたことだろう。下からどうなっているのか遮蔽する意図も。

nanaojo_20-7390かなり丸い、二段目の石垣。石も真っ白で、地面や木々の緑とのコントラストが美しい。

nanaojo_21-7392このあたりは低い石垣を何段も重ね、高石垣と同じような効果を出している。

nanaojo_22-7394そしてやや崩壊気味ながら、石段は細くなり、上の曲輪への虎口へと繋がる。今は先が開けて見えるが、当時は土塀や城門、櫓などで取り囲まれ、堅固な守りになっていただろう。

nanaojo_23-7395ちょうど城門があったであろうあたりから、上の曲輪を見る。

nanaojo_24-7396多段石垣の上へ。ここは広く、向かって左側には石垣の長い壁が残る。

nanaojo_25-7398曲輪を分断する長大な石垣と土塁。このあたりは重臣 遊佐氏の屋敷があったのではないかとされる場所だという。

nanaojo_26-7397土塁の裏あたりに設置された遊佐屋敷跡 説明板。本丸の高い切岸の真下という重要な位置にあった屋敷ということで、遊佐氏の屋敷ではと想定されているとか。復原CGによると、土塀・石垣の上には狭間を備えた城壁が設置されていたようだ。

nanaojo_27-7400遊佐屋敷内を通って、奥の本丸へと通じる階段へ向かう。向かって右上が本丸跡だが、登り口は左側奥になる。

nanaojo_28-7401本丸へと続く階段。右側には石垣を持つ大きな土の壁があり、曲がる先の見通しは悪い。

nanaojo_29-7402s右へ曲がると、石段の右側は石垣の壁、左側は多段石垣。石垣の上には横一列に兵が並びこちらに発砲して狭い石段を上がってくる敵兵を前から順番に射ていく算段か。復原CGによると、多段石垣はその上の屋敷の懸造(かけづくり)の柱の足場でもあった模様。

nanaojo_30-7403本丸下多段石垣。

nanaojo_31-7406s本丸直前あたりから石段下を見下ろす。狭い石段を上がってくる敵兵はこの位置からだと一網打尽だろう。奥には遠く七尾湾。

>> 七尾城 [2/5] へ続く。<<

訪問時期:2016年10月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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