竹中氏陣屋 [2/2] 竹中氏菩提寺 禅幢寺と、かつて黒田官兵衛の息子を匿った五明稲荷へ。

竹中氏陣屋 訪問記 其の二。

[前回までの訪問記 概要]
竹中半兵衛の銅像がある陣屋表門へ。陣屋の敷地は岩手小学校となっているが、陣屋の正門だった表門およびその周囲の石垣、水濠、土塁の一部が現存する。陣屋門の南側にある菁莪記念館でゆかりの品々を見た後、竹中氏の菩提寺だった禅幢寺へ向かう。

訪問時期:2015年11月
竹中氏陣屋 訪問記 − 其の一


<訪問記>

takenaka-jinya_31-6856陣屋門から少し北へ。竹中氏の菩提寺 禅幢寺へ。ここには半兵衛および半兵衛の父、そして兄弟らの墓が伝わる。

takenaka-jinya_32-6857バス停の裏にひっそり建っていた説明看板「竹中半兵衛重治の墓」。なお半兵衛の墓は全国数カ所にあり、有名なところでは無くなった三木古戦場の近くにある平井山麓と栄運寺のもの。訪問記

takenaka-jinya_33-6830では禅幢寺を訪問してみよう。こちらが正面。山門に土塀、石垣、奥には物見櫓のようにそびえる鐘楼。こちらが陣屋のような雰囲気。

takenaka-jinya_34-6831禅幢寺 説明板。読み方は ぜんどうじ。開基は室町中期だが、ここ岩手の地を統治した竹中氏の菩提寺として本堂寄進などが行われている。竹中半兵衛は天正七年に播磨三木で合戦中に陣没、そのまま当地に墓が建てられ埋葬されたが、八年後の天正十五年になって長男重門が当地に移葬したという。

takenaka-jinya_35-6832禅幢寺 山門。秀吉の参謀であった竹中半兵衛重治と黒田官兵衛孝高のいわゆる「二兵衛」を記した派手なノボリもある。

takenaka-jinya_36-6833山門を越えて中へ。石垣と土塀で囲まれた堅固な作りだ。まるでお城。

takenaka-jinya_37-6834右手に目をやると立派な鐘楼。

takenaka-jinya_38-6836本堂左奥に、墓地へと続く道がある。その前には「竹中半兵衛重治公の墓」という案内板もあり。

takenaka-jinya_39-6839墓地へ。沢山の墓が並ぶ山麓の高台へ。手書きの案内板が随所に建っており迷わない。半兵衛公らの墓は上段奥。

takenaka-jinya_40-6841ずらりと並ぶ墓石。上段へ。

takenaka-jinya_41-6842今風のノボリ。智将 竹中半兵衛 いざ出陣!

takenaka-jinya_42-6843こちらが竹中半兵衛重治公の墓。お堂の中に収められているようだ。奥にはかなり古い五輪塔も見える。今も献花が絶えることはない。

takenaka-jinya_43-6844隣りにあるお堂は、半兵衛の父・竹中重元公の墓。半兵衛のお堂とは似ているが懸魚や鬼瓦の形が異なり、重元公の方がやや立派な造形となっている。なお重元公の墓とされるものは、もう一つ、竹中氏がここ岩手に入る前に居城としていた美濃 大御堂城 そばの月真寺にもある (訪問記)。

takenaka-jinya_44-6845更に奥のやや離れた場所には、竹中久作重隆の墓、もある。半兵衛の弟とか。こちらはお堂は無く五輪塔がむき出しだが、足元に説明がある。

takenaka-jinya_45-6846竹中久作重隆公の説明。半兵衛の三歳下の弟で、稲葉城乗っ取りから信長の馬廻へ、姉川の戦いや三木合戦にも参戦してきた。そして本能寺の変 直後の美濃一揆 鎮圧戦で命を落としている。

takenaka-jinya_46-6848半兵衛および重元公の墓所。

takenaka-jinya_47-6829禅幢寺を出て北隣りへ。こちらは八幡神社となっており、その奥には菩提寺山城 (竹中陣屋を築く前の竹中氏居城だった山城) への登山道の一つがある。

takenaka-jinya_48-6828こちらが菩提寺山城 登山口、八幡神社側。他に何箇所か登山口がある。こちらからは、距離はあるが、角度が緩やかになっているという。

takenaka-jinya_49-7095最後に、竹中半兵衛が当主の時代、同じ秀吉の元に仕えていた黒田官兵衛孝高の幼子 松寿丸(後の長政) を匿った場所と伝わる「五明稲荷」を訪れてみよう。現場は住宅街と田畑の中にひっそり残る神社。

takenaka-jinya_50-7093こちらが五明稲荷。お堂と巨木、そして説明板が建つ。

takenaka-jinya_51-7087五明稲荷 説明板。天正六年、摂津 有岡城にて信長に反旗を翻した (謀反) 荒木村重を説得すべく、秀吉参謀の黒田官兵衛 (小寺孝高) が有岡城へ赴く。しかし村重は説得に応じず、逆に官兵衛を捕らえ牢に閉じ込めてしまう。戻らない官兵衛を信長は荒木方へ寝返ったと解釈、息子の松寿丸 (当時10歳) の処刑を命じる。同僚だった半兵衛は、官兵衛が寝返るわけが無いと考え、独断で松寿丸を家臣 不破矢足の屋敷 (現 五明稲荷) に匿った。バレたら厳罰は免れない主君への嘘は、当時はまさに命懸けの行動だっただろう。その後 有岡の合戦を経て官兵衛は救出、寝返りの疑惑は晴れ、また松寿丸もその生存も含め許された。官兵衛が救出されたとき、既に半兵衛は病死していた。境内には、松寿丸が許され岩手を去るときに手植えしたと伝わる大銀杏が残る。

takenaka-jinya_52-7089境内の大銀杏。鳥居の左右に一本ずつ立つ。「松寿丸お手植え」は左側の枯れかけている方。
ちなみにこの大銀杏の老木は、倒木の恐れがあるとして惜しくも2016年2月9日に伐採され、現在は巨大な切り株のみが残るという。切断された木の一部は菁莪記念館に展示されている。

takenaka-jinya_53-7092五明稲荷 赤い鳥居。

takenaka-jinya_54-7090五明稲荷 お社。

竹中半兵衛ゆかりの地である垂井岩手の地には、著名な竹中陣屋だけでなく、菩提寺 禅幢寺、菁莪記念館、山上の菩提山城、そして五明稲荷など数多くの見どころがある。計画的に動いてぜひすべてセットで見て回りたいところだ。

訪問時期:2015年11月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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