竹中氏陣屋 [1/2] 竹中半兵衛の息子 重門が築いた平城・陣屋跡。

竹中氏陣屋は、関ヶ原の北東4kmほどに位置する江戸時代の旗本 竹中氏の陣屋跡。初代藩主 竹中重門は竹中半兵衛(重治)の息子で、半兵衛の頃は山上の菩提山城が居城だったが、重門が時代の流れに沿って山麓に平城を建造した。築城当時は岩手城 (当地は岩手村) と呼ばれたが、江戸時代になって竹中氏が旗本身分となったため「陣屋」と呼ばれるようになったという。跡地は小学校となったが、櫓門、石垣、水濠、土塁の一部が今も残る。近くに竹中氏菩提寺の禅幢寺がある。

<基本データ>
●名称:竹中氏陣屋 (Wikipedia)
●所在:岐阜県不破郡 (地図)
●城主:竹中重門
●築城:天正十六年(1588)頃か
●遺構:櫓門、石垣、水堀、土塁

訪問時期:2015年11月
竹中氏陣屋 訪問記:其の一


<訪問記>

takenaka-jinya_01-6864JR関ヶ原駅と垂井駅の中間地点から北へ。岩手小学校の裏手に、小学校とは不釣り合いな石垣と白漆喰の櫓門がある。こちらが竹中氏陣屋跡だ。

takenaka-jinya_03-6868まず目立つこの銅像。竹中氏陣屋は竹中重門が天正〜慶長期に築いたとされるが、門前にある像は、その父親で竹中氏で最も有名な竹中半兵衛重治公。斎藤龍興の稲葉山城を少数精鋭で占拠し、その後は織田信長の天下統一に向け転戦中の若き秀吉(羽柴藤吉郎)に仕え、智謀の士として活躍した。

takenaka-jinya_04-6869竹中半兵衛像。甲冑をまとい、采配を持って床机に座る。ちなみに床机(折りたたみ椅子)は、✕の部分を前にして座るのが武士流、横にして座るのが文官流、と言われている。

takenaka-jinya_05-6898裏側。右足を少し浮かせ、床机にあたった草摺 (くさずり) が少し浮き上がっているなど、リアルな造形が見どころ。

takenaka-jinya_05a-6865正面から。戦場において部隊に指令を出した後、高台の上から戦況を見つめる状況、といった場面だろうか。

takenaka-jinya_06-6870半兵衛像の裏側にある竹中陣屋 説明板。何故か英語、と思ったら、中学生の英語による我が町自慢スピーチコンテストを記念して作ったとか。中学生が書いた英文、というわけでもなさそう。なお日本語の陣屋説明板は、何故かここではなく、近くの駐車場入口に建っている。後ほど紹介。

takenaka-jinya_07-6896竹中氏陣屋 櫓門とその石垣。石垣は野面積みだが表面が美しく揃えてある。櫓門の左右には当時は多聞櫓が接続していたことだろう。

takenaka-jinya_08-6871石垣の前に建つ史跡碑。石碑表面積に対して何故か文字が小さく、さらに掠れていて読みづらい。岐阜県史跡 竹中氏陣屋跡、と彫ってある。

takenaka-jinya_09-6874門を入る前に、門の石垣の横に、道を遮るように延びている石垣の壁。古絵図の陣屋図面にも描かれている。こちらの石垣は先端部が切りそろえられピッチリはめこまれている「切込ハギ」方式。後日追加されたものだろう。

takenaka-jinya_10-6900飛び出た石垣の城壁部分と、その裏側あたり。石垣はここまでで、此処から先は土塁となる。切込ハギだった石垣は表側(櫓門側)だけで、裏側は普通に野面積みだ。

takenaka-jinya_11-6872では櫓門へ。隅部の石垣は長辺と短辺を交互に積み上げる算木積みが用いられている。

takenaka-jinya_12-6875城門の前に建っていた説明板。陣屋ではなく、竹中半兵衛重治公の説明板だった。智謀神の如し。残念ながら播磨攻めの総決算、別所氏との三木合戦の最中に病没する。ここより北500mの禅幢寺は竹中氏の菩提寺で、半兵衛らの墓もあるという。後ほど訪れてみよう。

takenaka-jinya_13-6876門内の石垣と門扉。中は結構な巨石が埋め込まれている。門扉は結構な修復の跡も多数見えるが、それだけ地元に大切にされている証拠だ。

takenaka-jinya_14-6877陣屋 櫓門を裏側から。

takenaka-jinya_15-6891櫓門内部へはこちらの脇の石段から。櫓門内部には入れないが、石垣の上へはあがることが出来るようだ。表側に比べ、内側の石垣は石がかなり小さい。

takenaka-jinya_16-6878石垣の上から、内濠跡を見下ろす。古絵図によると当時は陣屋全体をぐるっと取り巻いていた内濠だが、今は陣屋門あたりだけが残り、あとは埋められてしまっている。

takenaka-jinya_17-6880s石垣の上から、濠と現存する石垣部を見る。本来は石垣も陣屋跡全体の周囲を囲んでいたようだが、今は東面のみが残る。

takenaka-jinya_18-6882折れ曲がる石垣。櫓門がある部分は陣屋のある主郭部から飛び出る凸部として築かれている。出枡形だ。今居る石垣はそれほど幅が広く無いため、多聞櫓ではなく土塀程度だったかもしれない。

takenaka-jinya_19-6883櫓門を石垣の上から。

takenaka-jinya_20-6888石垣の上から半兵衛像を見下ろす。

takenaka-jinya_21-6862陣屋 櫓門を出て少し北へ進む。草ぼうぼうになっているが、土塁が残っているようだ。古絵図によると上部は石垣が描かれているので、草に覆われているが中身は一部石垣なのかもしれない。

takenaka-jinya_22-6859駐車場に建つ 竹中市陣屋跡及び櫓門 説明板。明治になって小学校の前身である菁莪義校(せいがぎこう)の正門として位置づけられたことから、破壊を免れたという。

takenaka-jinya_23-6860上記 陣屋説明板の裏側は、竹中半兵衛時代の居城だった、裏の山上にあった菩提山城(ぼだいやまじょう)の説明板となっていた。ハイキングコースとして整備され、山上には空堀、堀切、竪堀、土塁などの防御施設の跡が残るという。

takenaka-jinya_24-6901陣屋 櫓門より少し南へ降ったところにある「菁莪記念館」へ。ここは竹中氏、陣屋そして菁莪義校や地元ゆかりの品々が展示された博物館となっている。覗いていこう。

takenaka-jinya_25-6903独特のカーブを描く玄関部分。近年の建物だが、外観は当時の菁莪義校の様式を再現したものだとか。

takenaka-jinya_26-6904菁莪記念館前にあった大きな説明板。表が地図(観光案内図)になっていて、裏側が説明板になっている。

takenaka-jinya_27-6905菁莪記念館 説明板。

takenaka-jinya_28-6907菁莪記念館 内部の様子。ゆかりの品々が所狭しと展示されている。

takenaka-jinya_29-6906記念館内に設置されていた、土粘土で作られた菩提山城ジオラマ。山頂部全体を削平し築いた巨大な山城のようだ。

takenaka-jinya_30-6908菩提山城跡平面図に色塗りした、分かりやすい図面。右下から伸びる赤線が登城ルート。昭和初期まで現地には弓矢に加工できる「矢竹」が自生していたとか。

続いて其の二では竹中氏の菩提寺 禅幢寺へ。

>> 竹中氏陣屋 [2/2] へ続く。<<

訪問時期:2015年11月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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