西高木家陣屋 : 関ヶ原の南部に残る立派な石垣を持つ旗本陣屋跡。

西高木家陣屋は、天下分け目の大戦 関ヶ原古戦場 の南、岐阜県大垣市南部の集落地に残る江戸時代の旗本陣屋跡。旗本ながら大名格を与えられていた高木家の陣屋で、高木家は西・東・北の高木三家(美濃衆)が交代で参勤交代などの任務をこなす交代寄合制度を取っていた。その高木三家の中で最も大きかったのが西高木家だという。現存する表門は幕末の1852年に再建されたもので、その他19世紀頃に普請された大石垣が残る。現在 敷地内には上石津郷土資料館が建っている。

<基本データ>
●名称:西高木家陣屋 (Wikipedia)
●所在:岐阜県大垣市 (地図)
●城主:高木貞利 (高木三家)
●築城:慶長六年 (1601)
●遺構:石垣、表門、土蔵

訪問時期:2015年11月


<訪問記>

nishi-takagi-jinya_01-6749大垣市南部の上石津 (かみいしづ) 地域。関ヶ原から南北に伸びる街道沿いに西高木陣屋は残る。上石津郷土資料館が目印。近くまで来ると、あからさまに巨大な石垣が集落の中に現れる。既に陣屋跡は始まっている。

nishi-takagi-jinya_02-6758「美の衆 陣屋跡」と書かれたピカピカの石碑。美濃衆とはここを交代で治めた高木三家のことを指す。現在残っている西高木陣屋は、高木三家の中でも最大派閥だった西高木家の陣屋跡。

nishi-takagi-jinya_03-6768石碑の裏側に由来記あり。石碑は裏側も忘れずに。江戸幕府の交代寄合は4つあり四衆と呼ばれ、那須衆、美濃衆、信濃衆、三河衆を言う。そのうちの美濃衆がここ高木三家で、隔年の参勤交代を三家交代で行ってきたという。高木家は濃尾勢三州の普請奉行にも任命されており、評価も高かったという。

nishi-takagi-jinya_04-6761石垣群の先端部分にある独立した櫓台的な場所の上に、ポツンと石碑が建っている。高木三家入郷地、と書かれている。

nishi-takagi-jinya_05-6769見張りのための物見櫓が建っていたのだろうか。

nishi-takagi-jinya_06-6762続いて少し間をあけて、陣屋本体まで伸びる石垣の壁。ここだけ見ると完全にお城だ。西高木陣屋が出来る前は当地には多良城と呼ばれる関氏の城があったそうだが、それらの遺構を再利用していたのかもしれない。多良城については詳細不明。

nishi-takagi-jinya_07-6763高台の上が陣屋屋敷跡。そこまで石垣で積み上げられたスロープが伸びる。左の車道を通れば敷地内に建っている郷土資料館の正面まで到達できるが、ここはスロープから登ってみよう。

nishi-takagi-jinya_08-6766石垣の先端越しに見る西高木陣屋の石垣。

nishi-takagi-jinya_09-6772やや坂道を登って、眼下の石垣を見下ろしてみる。先ほどの単独石垣の櫓台とその横の石垣先端部は同じ高さ、同じ規模なので、あそこが資料にあった「埋門」跡なのかもしれない。よく見ると手前に井戸跡らしき蓋をされた穴も見える。

nishi-takagi-jinya_10-6773では石垣沿いに設置されたスロープをあがる。坂道と思いきや、古い緩やかな石段があるようだ。

nishi-takagi-jinya_11-6774スロープの上段部より眼下の石垣を見下ろす、再び。やはり石垣の切れ目の部分は埋門に見える。

nishi-takagi-jinya_12-6776スロープを上がりきると、やがて高台の上の広い削平地に出た。ここが西高木陣屋跡。左の建物は郷土資料館、右の古そうな建物が江戸時代から現存の表門だ。

nishi-takagi-jinya_13-6795西高木陣屋 現存 表門。見張りの出窓も備えた立派な長屋門だ。

nishi-takagi-jinya_14-6778表門を正面から。奥に建物も見えるがあちらは明治期の建物とのことで、非公開。門の扉も固く閉められ、表門を裏側から見ることは叶わない。

nishi-takagi-jinya_15-6779史跡 西高木家陣屋跡 説明板。遺構の筆頭として「埋門」があり、現在石積みのみ残る、とある。場所が書かれていないが、やはり先ほどの石垣の切れ目の部分のことだろうか。図面を掲載してほしかった。現存の表門は嘉永五年(1852)築、奥の屋敷は明治二十九年(1898)築だ。

nishi-takagi-jinya_16-6793表門の門扉。経年により柱などがやや曲がっているが、それでもこれだけの威厳を保っている。漆喰の壁は整備事業で時折塗り直されているのだろう、今も美しい姿を見せてくれている。

nishi-takagi-jinya_17-6780壁の隙間から門内部の屋敷を見てみる。庭園に古いタイプの増築された屋敷が見える。今も人が住んでいるのだろうか?

nishi-takagi-jinya_18-6791表門 を別角度から。

nishi-takagi-jinya_19-6781更に奥の敷地へ足を伸ばしてみよう。

nishi-takagi-jinya_20-6782土が盛り上げられた部分には小粒ながら石垣の跡。崩壊が激しいのか、ビニールシートに覆われていて残念。

nishi-takagi-jinya_21-6785土塁の一部に穴があけられ、石積みで固められている。門や登り口にしては狭すぎる。炭焼き釜にしては焼けた跡が見えない。詳細不明。

nishi-takagi-jinya_22-6784更に奥へ。この先は高木家ゆかりの方々の墓地のようだ。

nishi-takagi-jinya_23-6786古い墓石。この奥はさらに墓地が並んでいた。手を合わせてから、散策はここまでにして、正門側へ戻る。

nishi-takagi-jinya_24-6796正門と資料館、そして多良中学校跡の石碑。陣屋や城跡などが明治になって学校や庁舎になったのはよくある話。

nishi-takagi-jinya_25-6797街道沿いの石垣。大小の石材を組み合わせうまく積み上げられている。

nishi-takagi-jinya_26-6799下を見下ろすとかなりの高低差があった。下に石碑が並んでいるが特に陣屋に関するものではなかった。

nishi-takagi-jinya_27-6800一段下の石碑エリアの入口にも石積みや入口っぽい作りあり。陣屋時代はここも敷地だったのだろうか。

nishi-takagi-jinya_28-6757集落の中にもいくつか当時の遺構が残る。こちらはその一つ、東高木家の土蔵。

nishi-takagi-jinya_29-6752違い鷹の羽の家紋が埋め込まれている。今もメンテナンスがされているのだろう、真っ白な漆喰壁と、下部の「なまこ壁」が美しい。「なまこ壁」は瓦を埋め込んでその隙間を漆喰を盛り上げて(この部分がまるでナマコのように見えることから「なまこ壁」と言われる)作る技法で、金沢城などが有名。この土塀のように斜めになまこを交差する造り方と、縦横にする造り方とがある。

nishi-takagi-jinya_30-6753交代寄合 東高木家土蔵 説明板。この土蔵あたりが東高木家の陣屋跡だったようだ。陣屋跡は失われ住宅となっている。土蔵は文政年間(1818-30)の建物と言われ、昭和54年に改修がされているとか。

nishi-takagi-jinya_31-6755土蔵の脇には左右を石垣で固めた古い路地があった。先は行き止まり。当時の東高木家の陣屋跡に関する通路だろう。

訪問時期:2015年11月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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