大和郡山城 訪問記 其の五。
[前回までの訪問記 概要]
内濠、本丸、柳沢文庫、復原追手門群を見て回る。工事中の天守台の姿を本丸内濠の北側からじっくり見る。最後に城外に残る大納言塚や城門跡の石垣を散策します。
訪問時期:2016年5月 / 2013年10月
大和郡山城 訪問記 − 其の一、二、三、四、五、工事前。
<訪問記>
大和郡山城を近代城郭に大改修した祖、羽柴秀長 大和大納言 の塚が残るという。地図を片手に住宅街の中へ。城から約10分、南西方向。写真右側の細い路地の奥に見える森がそう。左側に看板もある。
こちらが「大納言塚」の入口。右奥の白壁の中にある。入口は反対側。
大納言塚 説明板。豊臣家滅亡後、墓は荒れてしまったため、江戸中期に町の人々により供養のための五輪塔が設置されたという。それがこちら大納言塚。
大納言塚 説明板その二。羽柴秀長と言うと(小説や漫画からのイメージで)オットリとしていながらも聡明で秀吉政権を影で支えるというイメージだが、、、
肖像画はなかなかのコワモテ。
大納言塚。左奥に見える入口へ。
大納言塚 入口。手前に通称「お願いの砂箱」と呼ばれる砂が入った石箱がある。
お願いの砂箱 内部。名前と願いごとを言いながら穴に三回砂を通すと願いが叶う、と伝えられている。
では大納言塚へお参りさせていただこう。
豊臣家家紋、五七桐。
こちらの立派な五輪塔が、大納言塚。町の人々に大事に守られている。
大納言塚の土塀上の瓦には、変わった登り魚の瓦。
町中を散策。線路沿いには郡山城外濠 矢田筋裏池跡 という場所があった。石碑は踏切の横にポツンと立っているが、、、
外濠跡は線路横に並走するこの細い水路か。
三之丸方面へ。交差点奥の石垣に囲まれた場所が旧三之丸(現 三之丸緑地公園)。その手前に、道路の左右に石垣が残る。道筋も当時のままということだ。場所的には鷺池の線路を超えてちょうど東側。
L字に曲がった大きな石垣。頬當門跡。
反対側にも石垣。櫓門があったにしてはやや低い。
頬當門趾。見辛い位置に石碑がある。
頬當門の石垣。裏側は結構壊れつつある。
頬當門の石垣台を見ていると中に入れそうだったので少しだけ入ってみる。石段らしき跡があるが崩壊している。
左側は崩れたので積み直した感がある。
石垣の上から門のあった方向を見る。
頬當御門。石垣同志の距離も結構ある。当時はどういう形の門があったのだろうか。
頬當御門。城下見どころの一つ。
頬當御門跡。元々の石垣自体は結構な高さがあるが、地面が高くなっているので、地表から見ると石垣の高さが低く感じられるようだ。手前は惣堀(外濠)の一部が残る場所。今は市役所前の水場になっている。
では石垣が残る三之丸へ。
枡形っぽい地形。どこまで本来の石垣なのかは不明。
内部は完全に公園と化していた。市民の憩いの場。
当時の城下町の町並みが色濃く残る一角。中央には水路、紺屋川と呼ばれ江戸時代 染めた布をさらすのに用いられた水路だったとか。染物職人の旧家を改築した展示施設などもある。またこのあたりは金魚の養殖が盛んでもある。
外濠は現存部が町中に散在しており、南東端あたりは「外濠緑地」として整備されている。その入口は巨大な冠木門風。
外堀緑地北門。門扉は八双に乳金物となかなか本格的。櫓門か高麗門形式にすればもっと本格的になったかもしれないなあと思ったり。
郡山城外濠跡 石碑。
外堀緑地の様子。水と緑が美しい、散歩するには絶好のコース。ただ水は循環しないからか、藻が繁殖していた。
つづいて、2013年に訪問した際(天守台工事が始まる前)の写真をいくつか次のページで紹介します。当時は天守台の真下まで行けました。
>> 大和郡山城 [2013] へ続く。<<
訪問時期:2016年5月 / 2013年10月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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