関ヶ原古戦場 [3/5] 敵方の藤堂家により建立された大谷吉継の墓所へ。

関ヶ原古戦場 訪問記 其の三。

[前回までの訪問記 概要]
JR関ヶ原駅から反時計回りに史跡散策。徳川家康最後陣地から岡山烽火場、決戦地、三成陣跡、そして敵中突破の島津義弘陣跡へ。其の三では宇喜多秀家、大谷刑部らが陣を構えた山間部へ。

訪問時期:2013年10月、2014年10月
関ヶ原古戦場 訪問記 − 其の一


<訪問記>

sekigahara082-0638島津義弘陣地跡より更に南下。開戦地まで後三丁、という標柱を発見。

sekigahara002-map3a2其の一で掲載した地図再掲。現在は中央やや左側、開戦地の前に居る。其の三では、ここから宇喜多秀家陣を経て、大谷吉継の墓・陣跡方面へと向かう。

sekigahara083-0640道の先にノボリが見える。右側の小山が宇喜多秀家の陣跡がある天満山。

sekigahara084-0642開戦地の巨大ノボリ。

sekigahara085-03127かなり目立つ開戦地ノボリ。駐車場まである。

sekigahara087-0646s昭和初期の史蹟碑も立っている。

sekigahara088-0647国史跡 開戦地 説明板。東軍先鋒 福島正則隊は井伊隊が先行してきたのを見て(井伊隊は軍監 本多忠勝に催促された)前方の宇喜多隊へ一斉射撃。関ヶ原合戦はこうして始まった。なお標柱の位置は北寄りに移動、とある。もう少し南側で開戦、というか、開戦した場所まで本当に分かるのだろうか?

sekigahara089-0644開戦地は見晴らしがよく、はるか松尾山の小早川秀秋陣(山上のノボリの場所)も見える。

sekigahara090-03131開戦地近くには、西軍 小西行長陣跡が残る。巨大な碑は無く、小さい方の古址碑のみ。明治39年に建立された標柱とのこと。

sekigahara091-0648小西行長陣跡。天満山北。

sekigahara092-0650小西行長陣跡 説明板。

sekigahara093-03138では天満山中へ入ろう。天満山 山中には天満神社が祀られ、そこが宇喜多秀家陣跡という。巨大な石碑が目印。

sekigahara094-03139天満神社 説明板。宇喜多秀家が陣を張った時は既にここに天満神社があり、戦火で当時の社殿等は焼失したという。

sekigahara095-03140天満神社への参道。

sekigahara096-03141大きな御神燈。神社らしくなってきた。今も地元の方々によって守られているようだ。

sekigahara097-0658天満神社 境内へ。

sekigahara098-0659天満神社 境内。土留と思われる石積みがある。

sekigahara099-0660天満神社 境内。中央部のこの広場には宇喜多秀家自身が居たのだろうか。宇喜多勢は17000、兵はほぼ山全体に配置されていたことだろう。

sekigahara100-0653天満山南 浮田秀家陣所古址。宇喜多ではなく浮田と書いてある。Wikipediaによると、戦後八丈島に流刑となった際に浮田へ改名した、とある。

sekigahara101-0654宇喜多秀家陣跡 説明板。秀家の前衛は明石全登(あかしてるすみ)。宮本武蔵も参陣していたと書かれている。巌流島で有名な宮本武蔵だが、実は明石城に宮本武蔵の設計による庭園跡があったり、明石城下町の都市計画を立てたという話も伝わっており、文武両道だったそうだ。なお宮本武蔵は生年は詳細は不明らしいが関ヶ原当時はまだ10代の若者だったとか。

sekigahara102-0652境内の奥に建てられている宇喜多秀家公陣所跡 石碑。さすがは西軍 副大将。兒文字は宇喜多家の旗紋とされる。

sekigahara103-0663宇喜多秀家陣跡から更に奥へ。隣の山上に大谷刑部の陣跡が残る。

sekigahara104-03151宇喜多陣の山と、大谷陣の山の間には、巨大なダムが設置されている。そのダムに架かる橋をわたる。水道施設用地の立入禁止看板にも「← 大谷吉継の墓」と書いてある。

sekigahara105-03191ダム湖に架かる橋。

sekigahara106-03155ダム湖。

sekigahara107-03157ダム湖を越えて更に奥へ。時々、右端に写っているような案内板があるので、迷わない。

sekigahara108-03158sダム湖の横を銃弾する車道。

sekigahara109-03160藤川台と言う説明板の脇より、山中へ入ることが出来る。山中へ入る前に、「平塚の碑 100m」とあるので、見に行ってみよう。

sekigahara110-03162こちらが「平塚の碑」。西軍で大谷吉継らと共に戦った平塚為広を祀る碑とのこと。

sekigahara111-03163平塚為広の碑 説明板。美濃垂井城主 一万二千石の大名。辞世の句を首に添えて吉継に送ったという。「名のために棄つる命は惜しからじ終にとまらぬ浮世と思へば」その句が今に伝わり、碑に刻まれている。碑を立てたのは平塚家子孫。

sekigahara112-03165では山中へ。大谷吉隆墓 三丁、とある。大谷吉継は、大谷吉隆とも呼ばれることもあるようだが、小文書等に残る本人の書類は全て吉継だとか。

sekigahara113-03166ロープが大量に張られた謎の山中。どんどん奥へ。

sekigahara114-03167s大谷吉継の墓 50m。正面の広場がそうだ。

sekigahara115-03168関ヶ原山中にたたずむ、大谷吉継 墓所。史蹟碑には「大谷吉隆墓」とある。

sekigahara116-03171中央の大きな五輪塔が大谷吉継の墓。左側の湯浅五助隆貞は大谷家の家臣で、切腹した大谷吉継を介錯した人物。その後 主君の首を離れた場所に埋めるも、東軍の藤堂高刑に見つかり、自らの首と差し替えに主君の首の在り処を秘してほしいと頼んだという逸話が残る。高刑は家康に大谷の首の在り処を詰問されるも、五助との約束を守り打ち明けなかったという。なお大谷吉継の墓は戦後すぐに藤堂高虎が建立したものだが、隣の湯浅五助の墓は大正時代になって子孫により建立されたものとか。

sekigahara117-03170大谷吉隆(吉継)墓 説明板。

sekigahara118-03172近くには昭和15年に建てられた大谷刑部の顕彰碑も建つ。

sekigahara119-03176吉継の陣跡として明治の石碑が立つ場所がある。少し奥へ。

sekigahara120-03177こちらが大谷吉継陣所古址。

sekigahara121-03178大谷吉隆(吉継)陣跡 説明板。9月15日の決戦から遡ること12日前に到着し、陣地づくりに専念したという。その万全の準備の甲斐あり、小早川に加え脇坂らの五月雨裏切りが起こるまでは寡兵ながら大軍の東軍勢に対し十分持ちこたえている。

sekigahara122-03186陣跡の近くには、小早川秀秋隊が布陣した松尾山を眺望出来る高台が残る。

sekigahara123-03181松尾山眺望地。ここだけ木が切れて松尾山がそっくり見える。

sekigahara124-03182松尾山眺望地 説明板。

sekigahara125-03183松尾山眺望地から見る松尾山山頂付近。左奥に小さいながら、山頂に建てられているノボリが見える。当時は山頂一帯に小早川家の旗がひしめいていたことだろう。

其の四では、その松尾山山頂を目指します。

>> 関ヶ原古戦場 [4/5] へ続く。<<

訪問時期:2013年10月/2014年10月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
– – – – – – – –
ブログ人気投票参加中. いつも投票アリガトウ(^-^)

投票するのも、順位を見るのも、上↑のアイコンを押してね!
ページの一番上に戻る

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中