関ヶ原古戦場 [1/5] “天下分け目の大戦” 東西諸将の陣跡めぐり。

関ヶ原古戦場は、秀吉亡き後の豊臣政権内衝突に端を発し国内を二分する全国規模の大戦(おおいくさ)の主戦場となった場所。日本全国各地でそれぞれに属する大名同士の戦いが同時勃発した中、最終決戦として総大将が率いる大軍同士の戦いとなったのが関ヶ原古戦場。関ヶ原一帯に東西両軍として全国より集結した有力大名らの陣跡が残るほか、戦死した大名の墓や碑、決戦地や開戦地、首塚など多数の史跡があり、国指定史跡となっている。

[関ヶ原合戦 概要]
豊臣政権の後期、政権は有力大名らで構成する「五大老」と有力重臣らで構成する「五奉行」らの合議制が取られていた。しかし政権内部は五大老筆頭の家康とその他の大老・奉行らの対立へと発展、秀吉死後には家康は三成から奉行の職を奪い居城(近江佐和山城)へと追いやる。更に大老の一人・上杉家が上洛を先延ばししたことに端を発して徳川を筆頭とした諸大名らによる上杉征伐を決定。慶長五年(1600年)6月16日、大坂城に居た家康が会津に向け出陣。その隙に石田三成や宇喜多秀家ら文治派は毛利輝元を大将に打倒徳川で挙兵(7月1日)。全国の大名らは徳川方・石田方(毛利方)のどちらに付くか決断を迫られた。それぞれの地で徳川方と石田方の大名らが互いの城攻めを開始。7月25日、家康は上杉征伐を中止し三成迎撃のため軍を西へ向かわせ自らは江戸城へ戻る。9月1日、家康は江戸を発ち大坂を目指す。9月14日 三成は大垣城、家康は大垣城を包囲する位置にある本陣へ。やがて両軍は西の関が原へ移動し、野戦決戦に向け陣地を築き始める。翌9月15日午前8時頃、東軍(井伊隊・福島隊)による西軍(宇喜多隊)への発砲を機に開戦。東軍の攻撃に西軍は持ちこたえるも、正午頃に発生したとされる松尾山の小早川隊の裏切り(西軍→東軍)を皮切りに脇坂隊ら他の諸将も東軍へ寝返り、西軍は壊滅。午後2時頃には勝敗が決し三成始め西軍諸将らは西へ逃亡、大谷刑部や島津豊久らは討死した。総大将の三成は後日捕縛され、大坂引回しの上 京都で斬首された。この後大坂城へ入った徳川家康は論功行賞を行い、味方した東軍大名らの多くを加増、敵対した西軍大名らの多くを切腹や改易に追い込み、更に自らの領土を大拡大。自ら徳川政権の基盤を確立した。

<基本データ>
●名称: 関ヶ原古戦場 (Wikipedia)
●所在: 岐阜県不破郡関ケ原町 (地図)
●対戦: 徳川軍(東軍) vs 石田軍(西軍)
●発生: 慶長五年(1600)
●遺構: 陣跡、墓碑、首塚 等

訪問時期:2013年10月、2014年10月
関ヶ原古戦場 訪問記 − 其の一


<訪問記>

sekigahara001-03044関ヶ原駅到着。レンタサイクル(近くの資料館にあり)で、古戦場跡に点在する陣跡などを巡ろう。

ちなみにこの訪問記は2回の訪問ルートを合成して作成しています。1回目は2013年10月、主に平地に残る陣跡・墓跡などを巡る旅。2回目は2014年10月、松尾山・桃配山など山上陣跡をメインに巡る旅。1回で全てを回ろうとするとかなりのペースが求められます。特に松尾山 (山麓→山頂 往復で1時間半ほど) と桃配山 (やや遠い)。なお布陣したものの戦わず退却した南宮山の毛利秀元や安国寺恵瓊などの西軍陣跡や、やや離れた場所にある島津豊久(西軍)・奥平貞治(東軍)の墓などは未訪問。

sekigahara002-map3a2今回の訪問ルート。ほぼ関ヶ原古戦場の中央に位置するJR関ヶ原駅(図の中央やや右上の緑丸)から反時計回りに進む。赤が東軍、青が西軍、緑はその他見どころ。計画的に巡ろう。

sekigahara003-0453s2関ヶ原地区に設置されている説明板。主な陣跡はほぼ描かれており、位置関係はかなりデフォルメされているが、非常に役立つ。右下の「家康最初の陣跡」は駅のすぐ右側(東)に描かれているものの、実際は上の衛星写真のとおり結構遠い。

sekigahara004-03046では駅から北にあるレンタサイクルが借りられる歴史民俗資料館へ向かおう。線路を渡るまでに、すでにこのような案内板が各所で見られ、分かりやすいが、無計画で来るとどれから行けばいいのか分からないぐらい沢山ある。まずは「東首塚」および「歴史民俗資料館」へ。

sekigahara005-03056線路を渡ってすぐ、大木の麓に最初の遺構である「東首塚」がある。

sekigahara006-03050東首塚 説明板。近くにある家康陣地(床几場)で首実検をした後、2箇所作られた首塚に埋葬されたという。

sekigahara007-03058巨石の脇にはかなり古い史跡碑が建っていた。最初の「福井」とは地名を指す。福井 關ヶ原合戰戰死者首級塚。関ヶ原の史跡跡には、この古い石碑、そして戦前に史蹟指定されたときの巨大な石碑、更に最近建てられた説明板やノボリなどが設置されているので、よく目立つ。

sekigahara008-03051戦前に史蹟指定されたときに設置された、巨大な史蹟碑。史蹟 關ヶ原古戰場 東首塚。

sekigahara009-03052首級墳碑 説明板。上の写真の左奥に建っている石碑「首級墳碑」の説明板。幕末なので、主に西軍兵士の弔いのためとはいえ、最後に家康を持ち上げる文面になっている。

sekigahara010-03055首塚の近くには、その首の血を洗い流したとされる首洗いの古井戸も残る。

sekigahara011-03047東首塚のやや北側は、東軍 井伊直政・松平忠吉の陣跡碑がある。

sekigahara012-03048松平忠吉・井伊直政 陣跡 説明板。松平忠吉は家康四男、関ヶ原時は忍城主 十万石で、徳川四天王で彦根藩祖の井伊直政とは舅・娘婿の間柄。しかし不幸にもこの両名とも関ヶ原での傷跡が原因で戦後しばらくして死去している。後ほど訪問する「開戦地」まで軍を進め、西軍の島津軍と戦闘を開始した。

sekigahara013-03253s関ヶ原町歴史民俗資料館。ここでレンタサイクルが借りられる。資料館の中にも色々展示されているが写真NGなこともあり何が有ったか失念。紹介なし。

sekigahara014-03059資料館のレンタサイクル倉庫。気合の入った武者たちの画像。右から、東軍・本多忠勝、福島正則、井伊直政、西軍・大谷吉継、?、島左近。西軍中央の鎌倉武者みたいな大鎧の武者は誰だろう?

sekigahara015-03071レンタサイクル倉庫の側面は、ここの資料館に展示されている関ヶ原合戦絵図。

sekigahara016-03097関ヶ原合戦のあらまし。合戦は旧暦の9月15日に起こったが、新暦では10月21日、毎年この日に関ヶ原地区では供養祭が行われている。

sekigahara018-03063顔出し。

sekigahara019-0560ではレンタサイクルに乗って関ヶ原一帯に残る陣跡を巡ろう。まずは資料館すぐ前にある、徳川家康 最後陣跡。大きな旗が建つが、こちらは公園で、史跡として整備されているのはこの奥。

sekigahara020-03067こちらが史跡 徳川家康最後陣地。戦いの終盤にここへ陣地を移した家康は、戦後、ここで首実検をしたという。

sekigahara021-03064徳川家康最後の陣地 説明板。土塁や中央の石垣は天保十二年(江戸後期)に幕府の命により築かれたとか。

sekigahara022-0565当時の様子を描いた古い看板。感じ出る。こんな調子で1つ1つ首を確認していく(顔見知りが居ないと更に確認が困難?)と、すごく時間がかかりそうだ。

sekigahara023-0564首実検を行った現場、全景。土塁と石垣は江戸後期のもの。

sekigahara024-03068中央の石垣の上には、床几場 徳川家康進旗験馘處。これも江戸時代に築かれたものか。ちなみに「床几」は「しょうぎ」と読み、野戦時の本陣などで武将がよく座っている、折りたたみ式の椅子のこと。座る際の床几の向きは、武人は床几の足が✕になる面を前に、文人は横にして座るとか。

sekigahara025-03069石垣土塁の裏側には、天保十二年十二月二十七日に公儀(幕府)の命で築いたことを記す石碑が埋め込まれている。床几ではなく床机と書かれている。設置を担当した総奉行や普請奉行、代官らの名が記されている。

sekigahara025a-035-03088では家康本陣跡を出て、北東へ。小山の上に、黒田長政と竹中重門が陣を敷いた場所が残る。正面の木が伐採されノボリが見える丘の上だ。眺めの良いこの場所は、戦の始まりを全軍へ知らせる烽火場の役割もあった。

sekigahara026-03072正面からは登れず、向かって右奥にある登山道を目指そう。岡山 東軍烽火場。

sekigahara027-03073こちらが東軍烽火場への登山口。

sekigahara028-03074竹林の中を進む。緩やかな登り。すぐに山頂へ。

sekigahara029-03077山腹には金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)が鎮座する。GoogleMapなどではここを目指せば分かり良い(黒田長政陣跡ではプロットされていない)。説明板によると、ここ岡山には黒田長政・竹中重門(あの竹中半兵衛の息子)の他に讃岐領主 生駒一政も布陣しており、その生駒氏が地元の金刀比羅宮(いわゆる「こんぴらさん」)の御神像を持参し戦勝を祈願したという。その御神像を戦後住民が貰い受け、ここに祭祀したそうだ。

sekigahara030-03086sやがて山頂へ。岡山 烽火場跡。戦場方面の木がキレイに伐採されているが、伐採されていなければ上から見ても下から見てもタダの山だっただろう。

sekigahara031-03084史蹟 関ヶ原古戦場 岡山烽火場。

sekigahara032-03080岡山(丸山)烽火場 説明板。戦いの始まりを知らせる東軍の狼煙はここから、西軍は三成本陣の笹尾山、宇喜多秀家の北天満山から狼煙が上がったという。

sekigahara033-03087岡山烽火場からの眺望。木が伐ってあることもあり、関ヶ原古戦場が一望できる。今は家だらけ工場だらけだが、当時は平屋が並ぶ街道があるぐらい、後は田畑で、様々なノボリを掲げた大軍勢の動きは手に取るように分かったことだろう。正面やや右の山が、小早川秀秋が着陣した松尾山。それより向かって左側が、東軍が布陣したエリア。

sekigahara034-03083向かって右側が西軍エリア。右奥の小山が宇喜多秀家・大谷刑部らが布陣した天満山あたり。三成本陣は更に右側になるが、現在は山麓に生える大木が邪魔して見えない。当時は当然見えたことだろう。

sekigahara036-0570では岡山烽火場から降りて、まずは三成本陣方面へ向かおう。当時の地形とそう変わりないかもしれない、田畑が広がるエリアを通り抜ける。

sekigahara037-0571三成本陣の手前には、ノボリと石碑で「決戦地」と記された場所がある。

sekigahara038-0573昭和初期の史蹟指定もちゃんとされている、関ヶ原古戦場 決戦地。説明板を見てみよう。

sekigahara039-0577決戦地 説明板。西軍 石田三成の本陣を前にした、合戦最大の激戦地だとか。大谷、宇喜多ら西軍諸将の軍が総崩れになり、北端に位置する笹尾山の石田三成陣へ突入する東軍全軍と、それを必死で防ごうとする三成軍。

sekigahara040-0576決戦地から見た石田三成 本陣 笹尾山。中央小山の上に建つノボリが目印。

其の二では笹尾山の三成本陣跡から、島津、小西など西軍諸将の陣跡を巡ります。

>> 関ヶ原古戦場 [2/5] へ続く。<<

訪問時期:2014年10月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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