後瀬山城 [1/2] 若狭国守護 武田氏が築いた若狭最大の中世山城跡。

後瀬山城 (のちせやまじょう) は、標高168mの山頂に築かれた若狭最大の中世山城で、若狭国の守護大名・若狭武田氏の拠点だった。山麓に守護館を持ち、山上の城郭は詰城だった。主郭には石垣と大石段が残るが、これは若狭武田氏滅亡後に入城した丹羽長秀以降のものとされる。関ヶ原後に若狭一国を与えられた京極高次は、海沿いに近代城郭 小浜城を築き、その後の酒井氏 藩主時代に城が完成、中世山城の後瀬山城は廃城となった。

<基本データ>
●名称:後瀬山城 (Wikipedia)
●所在:福井県小浜市 (地図)
●築主:武田元光
●築城:大永二年(1522)
●遺構:石垣、土塁、堀切、虎口、畝状竪堀群 等

訪問時期:2015年10月
後瀬山城 訪問記 − 其の一


<訪問記>

nochiseyama-5989後瀬山城への登城口。愛宕神社 (山頂の社) の石鳥居が目印。

nochiseyama-5990登城口に建つ看板。ざっくりしすぎていてよく分からないが、とにかく広いことは分かる。鳥居の絵が描いてある場所が主郭、そこから右下に延びている灰色の線が登城路で、右下に伸びた先が今いる登城口。と言った説明がまったくない図面。

nochiseyama-5992史跡 後瀬山城跡 説明板。登山口近くに設置。詳細な縄張図(でも線だけでどこに何があるかは一切記載なし)と、詳細な解説がある。

nochiseyama-5993-map1説明板に掲載されていた縄張図。現在と主郭までの赤線が引いてあるだけで、土塁・石垣・堀切などの見どころについては説明なし。

nochiseyama-5993a-6230-map2ちなみにこちらは山麓の居館跡にある説明板の縄張図。同じ図面ベースだと思うが、こちらには少しだけ説明がある。上の図とは180度ひっくり返っている。実際の登城では、登城口には無いこちらの方がやや役に立ちそう。

nochiseyama-5994では登城開始。しばらくは愛宕神社(山頂主郭跡)の参詣道として設置された階段をあがる。急角度を一気にあがる感じで、結構しんどい。屋敷跡の反対側にあたるので、当時からこの道があったのかは不明、あっても大手道ではない。

nochiseyama-6003なかなかの急階段が続く。尾根まで上がってしまえばあとは横移動になるので、頑張って登る。

nochiseyama-6014尾根まで到達。段々状に築かれた曲輪(連郭群)と、その左側にそれらを縦断する道が築かれている。ここに「曲輪◯」という看板があるが、3文字目が消えすぎてて読めない。曲輪何?

nochiseyama-6016城内路は削られて階段のようになっている。右側は連郭群だが、整備はされていないので森状態。城内路を進む。

nochiseyama-6018尾根の分岐点へ。右へ曲がると尾根を降りて八幡神社へ。主郭は奥へ。

nochiseyama-6020s虎口っぽい土塁の盛り上がり。

nochiseyama-6021尾根の削平地を分断する堀切と、そこに設けられた細い土橋。堀切が斜面をえぐるように掘られているのが印象的。

nochiseyama-6022a-6037斜面の上へ巻き付くように設置された道。その手前にはこちらも堀切。

nochiseyama-6030堀切から竪堀へ。

nochiseyama-6033反対側。枯れ葉が随分積もっているので、きれいに掃除したら、往時の深い竪堀の様子が見えるかもしれない。

nochiseyama-6042再び連郭群へ。土を掘って堀切道にしたような城内路。

nochiseyama-6047連郭の一つ。切岸と削平地。

nochiseyama-6056連郭群が終わり、雰囲気が変わってきた。正面には垂直に盛り上げられた切岸。そして左側に階段がある。

nochiseyama-6059階段をあがる。

nochiseyama-6061広い曲輪へ。曲輪の名称等は資料が無く不明だが、主郭から数えて3番目の曲輪(仮称 III郭)へ。

nochiseyama-6062土塁とその背後には武者隠し的な凹み。

nochiseyama-6068仮称 III郭の奥にはやや幅広の土橋と、左右には堀切。

nochiseyama-6069a-6065ここには突如「堀切・土橋」と書かれていた(消えてしまっている)看板が立っていた。

nochiseyama-6072土橋・堀切と 仮称III郭を見返す。橋の向こうには木戸が設置されていて、その向こうの広い曲輪には兵の駐屯場のような小屋か屋敷が建っていたのだろうか(妄想)。

nochiseyama-6075更に奥へ。奥に石段が見えてきた。ここはその手前、仮称 II郭。ここから見上げる主郭の石段と石垣が後瀬山城の最大の見どころポイントだ。

nochiseyama-6078仮称II郭より、主郭石段とその上の石垣を見る。木々が生えているので見辛いが、当時はこういった木など無く、土も石垣も整えてあり、安土城大手道をも彷彿とさせる堂々とした正面入口だったのだろう。

nochiseyama-6100主郭石段を上がりながら。まさに古城の貫禄十分。これらの石段・石垣は、後瀬山城を築いた若狭武田氏ではなく、その後に入城した信長家臣・丹羽長秀によるものとされている。

nochiseyama-6101a-6091一段目の石垣。大小様々な石材が乱雑に積み上げられている。上から木が生えてきたからか、崩壊が激しい。かなり下の堆積土に埋まっているところもあるだろう。

nochiseyama-6103一段目の石垣を越えて。主郭外周部にあたる二段目の石垣は、石段の正面だけでなく、周囲をぐるっと取り囲む様が今も残るという。主郭散策後に外周を巡ってみよう。

nochiseyama-6105まさに、若狭の安土城たる雰囲気。言い過ぎか。いや、丹羽長秀は主君 信長の安土城 大手道を見て、きっとそれを自らの後瀬山城にも築きたかったのかもしれない。と思わせるだけのこの雰囲気。すばらしい。

nochiseyama-6106一段目の石垣と違い、二段目の石垣は大ぶりのゴツゴツした石が豪快に積み上げられている。そして石段にも注目、割っておおまかに揃えた細長い石を几帳面に並べている。それが400年以上を経てまだこうして我らの足元を支えているのはスゴイことだ。

nochiseyama-6107主郭上より石段下を見下ろす。上から見ると左右の石垣の様子は分からないが、当時は左右の石垣の上に土塀などが設置され、石段を上がってくる敵は左右からの猛攻撃にあう、という構造だったのだろうか。ちなみに丹羽長秀 以降の後瀬山城は、関ヶ原関連も含め、戦いに巻き込まれた記録は無いとのこと。

nochiseyama-6109後瀬山城 主郭へ。立派な石灯籠がお出迎え。中央の玉が印象的。

nochiseyama-6110主郭外周はこのように高さ1mほどの土塁を石垣で固めた厳重な城壁が取り巻いている。当然石垣の上には土塀か板塀かが張り巡らされていたことだろう。入口以外から入ってくるのは至難の業だ。

nochiseyama-6112主郭隅の方に遠慮がちに「武田氏城址」と彫られた石碑が建っていた。若狭国守護 武田氏の城。武田信玄で有名な甲斐武田氏とは遠い親戚関係にあたる。武田氏の祖は鎌倉時代に遡る。幕府より甲斐国と安芸国の守護に任ぜられ、その安芸国守護の武田氏の一族が武功により若狭守護に任命されたことで、若狭武田氏が確立したという。しかし越前朝倉氏との戦いで消耗し、信長の力を借りて朝倉氏は滅亡したが、その信長により若狭国は丹羽長秀に与えられ所領を失った。本能寺の変後は明智方に付き旧領回復を狙うも、山崎合戦敗北により若狭武田氏当主は自害となり、滅亡した。

nochiseyama-6113a-6150s主郭に建つ愛宕神社。後に若狭国を所領し、後瀬山城を廃して近代城郭 小浜城を築いた京極高次の正室、浅井三姉妹の次女 初(常高院)が勧進し、今も地元では厚く信仰され、火祭などをも行われているとか。先ほど通ってきた広い曲輪に焼け跡があったのは火祭の跡かもしれない。

>> 後瀬山城 [2/2] へ続く。<<

訪問時期:2015年10月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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後瀬山城 [1/2] 若狭国守護 武田氏が築いた若狭最大の中世山城跡。” への2件のフィードバック

  1. 京極高次の正室浅井三姉妹の次女(常高院)はお江では無くお初です。お江は徳川二代将軍秀忠の正室ですよ!

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