後瀬山城 訪問記 其の二。
[前回までの訪問記 概要]
後瀬山城北東山麓の愛宕神社 登山口より登城開始。愛宕神社の参詣道として築かれた長い階段をあがる。段曲輪が多数連なる連郭群や、堀切・土橋などを越えて、石垣と石段で固められた主郭跡へ。其の二では主郭周囲に築かれた石垣を見てから、北尾根沿いの連郭伝いに下山し、北側山麓に残る館跡や菩提寺などを巡ります。
訪問時期:2015年10月
後瀬山城 訪問記 − 其の一、二。
<訪問記>
では主郭の一段下に戻って、主郭周囲に残る石垣跡を見て回ろう。主郭に一旦上がってしまうとつい見落としがちなので注意。
後瀬山城 縄張図 再掲(山麓居館跡 版)。現在は「主郭跡」の正面(図の左側)に居る。このまま主郭跡をグルっと回ってから、右下にある「御殿跡」へ。そこから左下に伸びる尾根筋に築かれた連郭群を通ってそのまま居館跡裏あたりに下山する。
石垣の上に生えた巨木。石垣がかなり飲み込まれてしまっている。周囲に石も無く、根が張って落ちてしまったのだろう。
では外周の石垣を見て回ろう。隅部もきちんと組まれていることが分かる。算木積みとまでは行かないが(織豊期初期)、きちんと揃えられた状態になっている。このまま斜面に沿って左へ。
根石(石垣の最も下部に埋め込む崩れないようにするための石材)にも似た、隅部の最下部巨石。このラインにはこの石だけで、他の列はもう1段上から積み上げられているように見える。
主郭外周石垣。ガツンガツンとぶつけて?割ったような荒々しく尖ったままの石をそのまま積み上げている。それから400年経って、まだ荒々しく尖ったまま残っているというのも、考えてみるとスゴイことだ。
隅部の稜線。
石垣は主郭一番奥までずっと続いている。正面の石段左右の石垣は崩れ気味だったが、本来はこのようにビシっと積み上げられていたのだろう。
主郭石垣、最奥部。なぜかここだけコケが生えておらず(削られている)比較的きれいな状態。ここでも巨石の根が石垣を覆い隠している。
斜面が崩れていたのでそのまま主郭上へ。元々ここは石垣が組まれていなかったのではなく、正面入口に対して裏口という位置づけの虎口があったのでは、と資料にあった。崩壊が激しく見てもよく分からない。
その根拠の一つとして、このあたりから奥の曲輪群へと続く道が延びている。至 神明神社 と書かれた案内板。神明神社は西の山麓にある神社。このまままっすぐ進めば下山できるということだ。ではこちらへ向かおう。
人工的に盛り上げたのだろうか、ダイナミックな形をしている主郭裏部分。この奥に、発掘調査が行われた山上御殿跡がある。パンフ等には石垣がどっさり出てきた写真が掲載されていたが、果たして。
主郭裏の堀切部にはこのように巨石がゴロゴロ。明らかに石垣用に割って形を整えた跡がある。石垣は木が生えたり地震や大雨なので、このようにして崩れて失われていくのだろう。
土塁上に大きく盛られた城内路を通って居館跡へ。右側は主郭切岸との間を隔てる堀切跡だろう。
山上居館跡。かなり広い、平らに均された曲輪だ。残念ながら発掘調査で出てきた石垣等はもう見えない(埋め戻された)ようだ。散策してみよう。
ケモノが爪や角を研いだ跡。熊にしては位置が低い。
居館跡の周囲には、土塁がグルっと築かれていた。現在見られるのはこれだけだが、発掘調査の結果報告を読んでみると、柱間数東西8間、南北4間で玄関に敷石の遺構を持つ礎石建物群が検出された、とある。出土品等の調査から、織豊期(つまり丹羽長秀期)まで使われていたことも判明しているとか。写真で見ると、奥に庭があって築山や石積みなどもあったという。
何か無いかとウロウロしていると、主郭石垣を斜面上に発見。少し登って見てみよう。
斜面に少しだけ残る石垣。堀切に大量に石が落ちていることからも分かる通り、こちら側はほぼ崩れ去ってしまったようだ。
主郭石垣、居館側。
では居館部を越えて、連郭群に沿って北西へ向かい下山しよう。連郭群は山麓まで続いているが、最後の最後は道がなくなるので山中の斜面をそのまま降りる。連郭群内には堀切や土塁、石積みなどの遺構も多数見られるので、これを見に行くとまだ来た道を全て戻るよりはそのまま降りてしまう方が早い。
西の連郭群に残る巨大堀切。
L字型に築かれた土塁。
長く築かれた土塁。西側を意識していたのだろう、こちら側にしか土塁は築かれていなかった。
土塁先端部。端っこまで抜かりは無い。見張りの塔的なものが建っていたとしてもおかしくない立地。
尾根を分断する堀切。下へ降りてみよう。
崩れてはいるが、かつては左の巨石と、崩れた石材を積み上げて石造りの堀切を築いていたのだろう。尾根道が完全に分断されている。
豪快な石造りの堀切。ちなみに大和 高取城では、このように石垣でガッチリ固めた大堀切が多数現存している。例:高取城 弥勒堀切。高取城 訪問記。
下山してきた。では山麓に残る遺構群を見てまわろう。この広い空間は、かつて城主が平時に住んだと言われる「後瀬山城跡守護居館跡」。正面は土塁の一部だろうか。今はただの広場だが、そのうち整備して中に入れるようにするらしい。奥の山は後瀬山城の端っこ。斜面の角度が半端ない。
後瀬山城跡守護居館跡 説明板。一辺約100m、周囲に水堀を巡らせた大規模な方形居館。若狭武田氏が滅んだ後もここは側近の住まいとして活用され、浅井三姉妹次女・お初の旦那さんである京極高次も小浜城が出来るまではここに住んでいたとか。居館跡の周囲には、各時代の藩主の菩提寺が建ち並ぶ。ちなみにこの看板に掲載されている山城の縄張図が、冒頭で紹介したもの。右上の写真は土塁しか無かった「山上居館跡」曲輪の発掘石垣。残して欲しかった。
居館跡は整備され公園になるようで、イメージ図が掲載されていた。かなりザックリ。土塁と唐門、水堀が再現されるようなので、完成したら寄ってみたい。
居館跡の一部は、京極氏の後に当地に入った酒井氏の菩提寺「空印寺」が建っている。
ここには八百比丘尼(やおびくに)の伝説がある。人魚の肉を食べたら不老不死になった娘が、諸国を行脚しながら死にゆく人々を見送りながら死と生についての永遠の命題を800年間考え続け、最後はここ故郷若狭に戻り洞窟(この看板の裏にある)で入定したという伝説が残る。いつの世も人はいつまでも若くキレイでありたいと願うが、果たして不老不死とは本当に幸せな道なのかを時を超えて問いかける話だ。それにしても、この看板のセンスよ。
八百比丘尼入定地。比丘尼の石像が建つ。合掌。
八幡神社。後ろの山は後瀬山城跡。縄張図によると八幡神社裏からも登城できるとか。
おまけ:登城口に置いてあったパンフレット。A3四つ折り。シンプルだがよく出来ている。
後瀬山城パンフレットの中から、後瀬山城の紹介部分をご紹介。その他、発掘調査の結果などが詳細に記されている。縄張図も掲載されているが、案内板と同レベル。どこにどういう遺構が残るといった説明が含まれていれば尚良かった。しかしパンフレットや案内板すらない山城跡が多い中、各地に案内板だけでなくこうしたパンフレットも設置してくれている小浜市、素晴らしい。
訪問時期:2015年10月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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